なるほど。今日一日を生きるために必要なものだけでは満足せず、それ以上のなにかを求めてしまう。ほんとうは必要がないものとか、絶対に手に入らないものを欲しがって、苦労することが多い。たしかにちょっとヘンですね。他の生き物からは、人間はずいぶんムダに悩んでいるように見えるのでしょう。
人間は、この矛盾を、考えることで取りのぞきます。つまり、欲しいものを手に入れられなくても、ひょっとしたら手に入るかもしれない可能性を、あれこれと複雑に考えたりすることで、納得し、安心するのです。ちょっとむずかしく言えば、頭のなかや心のなかで、肉体の限界を乗り越えるのですね。
内村さんは、人間にとっていちばん重い問題は「死」だ、と言います。大昔の人々にとって、「死」はなによりも不思議でおそろしい出来事だったにちがいありません。そこに、「宗教」のきっかけがあった、と内村さんは考えます。
「死」があるところには、かならず「宗教」がある。なぜなら、誰もが死んでも死なないことに憧れてしまうからだ、ということなのです。
死なない人間はいませんね。不死(死なないこと)を望んでも、叶わないことはわかっています。でも、わかりきっていることでも簡単には納得しないのが、人間なのです。そこで、不死という望みを捨てられない人間たちは、死んでも死なない可能性を考えたのですね。そういう思いが積み重なって「宗教」になるんだ、というわけです。
死んでも死なない。死んで、カラダは無くなるけれど、タマシイは消えずにどこかを漂っている……。 わたしはそんな想像をしますが、みなさんはどう思いますか?
ここで気をつけたいのは、内村さんが生きていた時代は、「死」がとても身近だったことです。たとえば、兄弟や姉妹が小さいうちに死んでしまうのは、ふつうのことでした。お葬式をしたり、お墓に行ったりする機会が、わたしたちの何倍もありました。医学が発達していなかったので、死んでしまった理由がわからないことも多かったのです。今は、早めに病気に気づいて治療するのが当たり前ですよね。誰でも死ぬのは同じですが、わたしたちは「死」を先延ばしする方法をたくさん知っています。そのぶん、死んでも死なないことへの憧れは、昔の人たちとくらべて少なくなったかもしれませんね。
だとしても、「宗教」は今もありますし、かたちを変えてこれからも残るでしょう。それは、わたしたちの人生のすぐそばに、〝絶望〟がたくさんあるからです。
すべては〝絶望〟からはじまる
みなさんは〝絶望〟したことがありますか?
話をわかりやすくするために、定期テストの成績が悪くてガッカリ……みたいなものは、〝絶望〟に含めないことにします。どうして点数を取れなかったのでしょう。授業中寝てたとか、宿題を真面目にやってなかったとか。そういう具体的な理由があれば、これからどうすればいいかを考えられますね。そうすれば、はじめはショックで目の前が暗くなるように感じた出来事にも、落ち着いて向き合えます。
では、交通事故にあったと想像してみましょう。もしもあなたが、夜の暗い道を反射板をつけずに歩いていたのなら、それが原因だとわかります。でも、そういう納得できる原因が見つからない場合は、困りますね。軽いケガですめば、運が悪かっただけと思えます。でも、この事故で取り返しのつかない大ケガをしてしまったとしたら、あなたはずっと、こんなふうにグルグルと考え続けるのではないでしょうか。
他の人たちと同じように歩いていただけなのに、なぜ、自分だけが車に衝突されたのだろう。なぜ自分は、あの日、あの時間に、あの道を選んだのだろう。悪いことはしてないのに、どうしてよりによって自分が……
事故や災害だけではありません。家族との関係でも、友人との関係でも、同じように原因も理由もわからないまま苦しい状況に追いこまれることがありますよね。そんなときわたしたちは、これまで当たり前だった世界の状態から、自分ひとりだけがいきなり見放されたと感じて、深い衝撃を受けます。むずかしいことばを使いますが、この世界は「不条理」だ!と感じるのです。
ここでちょっとだけ、わたし自身の話をしますね。
わたしの両親は、わたしがまだ小さいうちに離婚しました。そのため家には母しかいなかったのですが、母があるときから、いわゆる〝こころの病〟になりました。わたしは、とつぜんいなくなってしまう母を、真夜中に探しに行ったりしました。そんなことが続くと、ぐっすり眠れなくなりますよね。母が買ってきた高価な鍋を、どこの店で買ったのかを調べて、返しに行ったりもしました。どうして店の人は、病人に何十万円もするものを売ったんだろうと、腹がたちました。それが何年か続いたあと、わたしが高校生になった頃には、一年間のうち半分以上は入院している状態でした。
わたしの経験は特別ではなく、よくあることです。でも、なぜ自分だけがこんな目にあわなくちゃいけないの?とすごくギモンに思っていました。医学の本には、母の病気にかんする説明が書かれていました。でも、病気の原因や治療法を知っても、納得も安心もできませんでした。交通事故の原因が、わき見運転だったとわかっても、なぜ自分が車にひかれたのか?の答えにはなりませんよね。それと同じです。
出来事が起こるのは、すべて偶然ですよね。あの日、あの時間に、あの道を歩いていたことの意味。わたしがこの親から生まれた理由。わたしがこの国で育った理由。いくら考えてもわかるはずありません。ふだんはそんなことで悩みません。事故や事件にまきこまれたとき、病気になったとき……。そんなときだけ、ただの偶然の意味や理由を考え、悩んでしまうんですね。そしてさいごには、どうして自分が?……なぜ自分が?……と、同じ場所をえんえんと、グルグルとまわることになってしまいます。
※1
「人間が書いた文章、歴史社会の制約の中で、また自分個人の制約と欠点もかかえて生きている、その人間が書いた文章が、「聖書」、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない。人間が書いたものは、あくまでも人間の歴史の記録である」田川建三『新約聖書 本文の訳』作品社 p.3
※2
森有正『内村鑑三』講談社学術文庫 p.63~64
※3
内村鑑三『代表的日本人』鈴木範久訳、岩波文庫 p.141