『聖書』は過去からの「手紙」だ
こんにちは。今回から内村鑑三の話をはじめますが、先に少し寄り道させてください。キリスト教という宗教を信じる人たちが、生きていく上で大切なものさしにする『聖書』についてです。
古い時代に成立した『旧約聖書』と、新しい時代に成立した『新約聖書』。この二つの本をあわせて、『聖書』といいます。『新約聖書』の主役が、イエス・キリストという人です。イエスが処刑されて何十年も経ってから、弟子たちが書いたイエスの物語。それを集めたものが『新約聖書』なんです。
さて、田川建三(1935年~)という人は、『新約聖書』をギリシャ語から日本語に翻訳して解説する、とても大事な仕事をしました。彼は著書のなかで、『新約聖書』について興味深いことを言っています。かみ砕いて説明すると、こういうことになります。 ※1
〝『新約聖書』は『聖書』って呼ばれているけれども、これはただの本だ。人間は、どうしても時代に縛られるし、個人的な欠点や矛盾もある。『新約聖書』もそんなみんなと同じごくふつうの人間が書いた、歴史の記録なんだ。だからほんとは〈聖なる書〉なんかじゃないよ。人間が書いた本をまるごと信じて神様みたいに崇めるなんて、それはおかしいよね〟
田川さんのような態度を〝批判的〟って言います。つまり、昔からの伝統や教会の意見にとらわれず、今を生きる一人の人間としてのびのびと『聖書』を読む、という態度です。『新約聖書』の文章が書かれたのは、二千年近くも前です。キリスト教は『聖書』と共に、長い長い時間を生き延びたのですね。そうなった理由は、〝批判的〟な人々が、キリスト教と『聖書』をリフレッシュさせてきたからなんです。ルターが行った有名な〈宗教改革〉も、そういう出来事でした。もとはといえば、イエス・キリストは『旧約聖書』の〝批判的〟な読者だったのです。神のことばを守らないと悪いことが起こってしまう……。『旧約聖書』は、当時の人々にとって、近寄りがたい、おそろしい規則でした。そんななかでイエスが、旅をしながら、出会った人たちに注意したんですね。〝神は、ほんとはそんなこと言ってないんじゃない? じつは、みんなに決まりを押しつけて利益を得ている奴らがいるんじゃないの?〟って。神殿にかかわる仕事をしていたエラい人たちを、そのように批判したために、イエスは逮捕されたんです。
内村鑑三も、『聖書』を〝批判的〟に読んだキリスト教徒です。大勢の人が信じていることを、自分も何も考えず安心して信じればいい。そんな信じ方にたいして、内村さんはいつも怒っていました。自分で『聖書』を読んで、迷ったり、悩んだり、間違ったりしながら、神やイエス・キリストを知っていく。そういうふうでなきゃダメだ、と言ったのです。
森有正(1911年~1976年)という人が、内村さんと『聖書』の関係を、こんな素敵なことばで語っているので、参考にしましょう。「内村は、聖書を、その中心であるイエス・キリストを、今日のわれわれに伝えてくれる古人の手紙のようなものと考えたのではないであろうか」 ※2
『新約聖書』のイエスの物語を書いたのは、イエスと旅をした直接の弟子たちではなかったと考えられています。イエスが処刑された後でイエスに興味をもった人々が、書いたのです。さまざまな言い伝えをもとに、教会の仲間と話したり、意見が違う相手と言い争ったりしながら、自分なりのイエスを想像したのですね。だから、『聖書』はルールブックじゃなくて、昔の人が、迷いながら、疑いながら書いた、わたしたちへの「手紙」のようなものだ、ということです。
『聖書』は古いことばで書かれた古い本です。今の時代にそのまま当てはめても、現在のわたしたちのものの見方や価値観とぶつかってしまい、どうしても信じきれない部分が出てきます。どうしましょうか。わからなくても受け入れるというのも、わからないから捨ててしまうというのも、どちらももったいない気がします……。
そういうときは、内村さんがやったように、『聖書』を「手紙」として読めばいいのではないでしょうか。わたしはイエスのことばや生き方について、こんなふうに考え、生きてみましたよ。あなたは、これを読んでなにを感じ、どう生きますか?と問いかける手紙が、時代をこえて届いた。そんなイメージで読んでみよう、ということです。
すると、過去からの手紙があなたに届いたように、あなたも未来へ向けて手紙を書きたくなるでしょう。じっさいに書かなくてもいいんです。書いているような〝つもり〟で生きていけばいいんです。そうすれば、だんだん、本を読むことと、あなたの人生が絡まり合ってきて、それがいつのまにか未来への貴重なプレゼントになるのです。『聖書』だけではなく、どんな古い本(古典といいます)でも同じだと思います。
わたしたちも、内村さんが残したことばを、わたしたちへの「手紙」として、プレゼントとして、読んでみましょう!
誰でも宗教に関心がある!?
内村さんが英語で書いた、『代表的日本人』という本があります。1900年代に入ったばかりの、その頃の世界では、まだ日本のことがあまり知られていませんでした。だから、この国にはこういう立派な人がいましたよ、と海外の人たちに紹介するつもりで書いたのです。
さて、本のなかで、内村さんは「宗教のない人間は考えられません」と言っています。※3 これはどういうことでしょうか。さらに、こんなふうに問いかけています。
人間は、自分の能力ではどうにもならないような、大きな願いや望みを持ってしまうでしょう?
※1
「人間が書いた文章、歴史社会の制約の中で、また自分個人の制約と欠点もかかえて生きている、その人間が書いた文章が、「聖書」、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない。人間が書いたものは、あくまでも人間の歴史の記録である」田川建三『新約聖書 本文の訳』作品社 p.3
※2
森有正『内村鑑三』講談社学術文庫 p.63~64
※3
内村鑑三『代表的日本人』鈴木範久訳、岩波文庫 p.141