内村さんは科学者だった!
内村さんがはじめて、足尾銅山の鉱毒問題にかんして意見を表明したのは、1897年の3月に『万朝報(よろずちょうほう)』という新聞に掲載された、英語の記事です。この年から、内村さんは、『万朝報』で、英文欄主筆という役職に就いていました。短い文章ですが、自分の金儲けのために、銅山経営者の古河市兵衛が多くの住民を苦しめていることを、厳しく批判しています。川俣事件や、田中正造の天皇直訴より前から、足尾銅山に注目していたのですね。それはおそらく、彼がもともと科学者として、川の水質などを調べた経験があったからだと思います。
札幌農学校の学生時代、内村さんは米の栄養分についての論文を書いたり、漁業がテーマの演説を行ったりしていました。卒業してからも、しばらくは北海道で、河川や海を視察して報告書を書いたり、漁師に指導を行ったりする仕事をしました。水産学のエキスパートだったわけです。石狩川で鮭が減少している問題を分析した論文では、原因の一つとして、〝石炭山の開発以来、鮭の遡上がなくなった〟という地元の人の声を報告しています。※5 すでにその頃から、内村さんの中で、自然環境が破壊されることへの危機感が募っていたのかもしれません。
とはいえ、「漁業ト鉄道ノ関係」という同じ頃の文章では、当時の最先端技術だった鉄道を活用すれば、魚を地方から東京へ効率よく運べる、と力説しています。つまり、自然環境を、人間に役立つ〝資源〟として扱うことに、この時はまだそれほど抵抗がなかったのです。そういう仕事なのだから、当たり前といえば当たり前ですね。でも、それだけではありませんでした。そこには、キリスト教が、深く関係していたのです。
みなさんは、「宗教改革」という出来事を知っていますか。16世紀に、ドイツのマルティン・ルターという人が、教会のあり方に異議を唱えて起こした、宗教運動ですね。ざっくりですが、これをさかいに、キリスト教の教会は、カトリックとプロテスタントという、二つの大きなグループに分かれました。ルターの運動から新しく生まれたのがプロテスタントで、抗議や反抗という意味があります。じつはその影響は、宗教の枠に収まらない、巨大なものでした。
ルターの改革で、とりわけインパクトがあったのは、『聖書』をドイツ語に翻訳して出版したことです。もともと『聖書』は、ふつうの人にはなじみのない言語で書かれた本でした(『旧約』はヘブライ語、『新約』はギリシア語)。なので、聖職者など一部の人にしか読めなかったのです。そのため、教会で行われる儀式の中で、聖職者から『聖書』について教えてもらうのが、一般的な信仰のスタイルでした。しかし、話しことばに翻訳されたことによって、専門家ではなくても『聖書』を読めるようになったのです。そこから、教会を通さず、個人個人が、直接神に向き合う信仰のかたちが、広がっていきました。
このことが、科学を飛躍的に発展させた。そう聞いて、みなさんはびっくりするかもしれません。でも、じっさいにそうだったのです。
田舎で暮らしていると、神社やお寺の行事に参加する機会があります。静かで重々しい集まりもあれば、お酒を飲んで騒ぐ楽しいお祭りもあります。どちらの場合でも、参加者は有難い(ありがたい)気分にひたります。人間って面白いもので、長い歴史のある場所で、先祖代々つづく行事を集団でとり行うと、なんとなくおごそかな、神聖な感じに包まれるんですよね。それにたいして、一人で本を読みながら、神のことを考えるのは、どうでしょうか。宗教に関係あるといっても、この二つはまったく違うタイプの経験であることが、わかってもらえると思います。
かけがえのない個人としての〝わたし〟の輪郭が、この世界の中に、くっきり、はっきり、浮かび上がってきたこと。それが、自分で『聖書』のことばを読み、神と一対一で向き合ったことによって、人々の中に生じた変化でした。つぎのように言いかえてもいいでしょう。人は、一人で『聖書』を読むようになって、〝わたし〟を神に似た存在として、意識しはじめた、って。
このことで、自然にたいする人間の態度も、大きく変わります。自然には、人間のしたことなんて一瞬で吹き飛ばす、とてつもない力がありますよね。宗教はもともと、恐るべき自然の力をなだめ、なんとか自然と上手に付き合おうとした人間の工夫から、生まれてきたものです。
ところが、一人で『聖書』を読む体験と同時に、自然をただ恐れるだけではなく、自然の秩序を分析し、理解しようとする心が、育ってきました。キリスト教の世界観では、自然は神によって造られたもの、いわば神の作品です。なので、自然研究が、神のことを知るための方法の一つとして、重視されるようになっていったのです。さらに、人間が自らを神に似た存在と認識することは、〝人間も、自然を自分のために役立てればいいんだ〟と考える態度につながっていきました。このようにして、「宗教改革」をはずみに、ヨーロッパで自然科学が花開いたのです。
内村さんにとって、科学者であることと、キリスト信徒であることがつながっていたのには、以上のような理由がありました。しかし、内村さんはある時から、そのつながりを断ち切ります。そしてそれが、田中正造との響き合いのポイントだったのです。
次回はそのことと、地球のこれからについて考えられたらいいな、と思います。
※1
田中正造は用意していた訴状を明治天皇に手渡す前に、警官に取り押さえられました。しかし新聞の号外によって、田中の行動と、直訴状の内容は、すぐに知れ渡りました。田中は死刑を覚悟していましたが、釈放されました。ちなみに、『万朝報』で内村さんの同僚だった幸徳秋水が、直訴状を書くのを手伝ったそうです。
※2
この出来事をきっかけに、谷中村から北海道に移住し、土地を開拓した人々もいました。北海道の佐呂間町に、〝栃木〟という地区があるのは、彼らが、自分たちの出身県の名前を付けたためです。
※3
『田中正造文集(二)谷中の思想』 小松裕「解説」、岩波文庫 396頁
※4
渡良瀬遊水地内には、ごくわずかですが、谷中村の史跡が保存されています。機会があれば、訪ねてみてください。
※5
「石狩川鮭魚減少ノ源因」(『内村鑑三全集』1巻、岩波書店)72頁