田中正造と、足尾銅山鉱毒事件
田中正造は1841(天保12)年生まれです。内村さんの20歳年上ですね。同じ年に、伊藤博文も生まれています。新聞の編集の仕事をしたり、自由民権運動にかかわって逮捕されたり……。江戸から明治の変わり目の激動期に〝世の中を良くしたい〟という志を抱いた人にふさわしく、若い頃から波瀾に富んだ人生でした。1890年には、第一回の衆議院議員総選挙に出馬し、当選します。この国で最初の国会議員になったのですね。
ちょうどそのタイミングで、渡良瀬川で大洪水が発生します。この出来事が、田中さんの生き方を大きく変えました。
ほんの少し過去にさかのぼって、一度、足尾銅山に目を転じます。
古河市兵衛という実業家が経営するようになって、足尾銅山では鉱脈が見つかり、銅の生産量が急激に増えました。1884年には産銅量が日本一になります。銅は主に、中国やインドやイギリスに輸出されました。古河市兵衛は外国の会社と取引して、大金を稼ぎます。一方その頃、渡良瀬川流域では、魚の大量死が問題になっていました。足尾銅山から流出した鉱毒が、大量死の原因なのではないか。そう推測する記事が新聞に掲載されます。また、足尾で山の木が枯れていることも報道されました。さらに、1890年夏の大洪水の後、渡良瀬川沿岸の田畑の農作物が、次々に枯死してしまったのです。これを機に、渡良瀬川流域の鉱毒被害が、世の中にだんだん知れ渡りました。流域に暮らす人々からは、銅山の操業を止めてほしいという意見が、上がりはじめました。
ちょっと専門的ですが、つぎの事実が、後の調査でわかりました。銅を採掘する坑道から湧いた銅・硫酸銅を含む地下水が、川に流出していたこと。銅の生産過程で出る、本当は丁寧に処理しなければならない廃棄物が、川に大量に棄てられていたこと。これらのために、川の水が汚染されてしまったのです。また、渡良瀬川で洪水がたびたび発生するのは、足尾周辺の山林が乱伐されていた(伐採された木材は、銅生産の燃料として工場で使用されていました)ことに煙害が重なって、山林がはげ山になり、川の水源域の保水能力が失われたためだと、考えられました。
つまりこの時、〝公害〟事件が、起こっていたのです。
洪水の翌年から、田中正造は国会で何度もこの問題を取り上げて、足尾銅山の操業停止を求めました。が、政府は、曖昧な態度で追及をやり過ごしました。そこで、流域の住民が団結して、大衆運動を起こします。行政機関を直接訪れて陳情する、「押出し」と呼ばれる行動です。1897年、政府はついに、鉱毒を防止する工事を行うよう、古河市兵衛に命じました。
ですが、被害住民の抵抗運動は収まりませんでした。彼らは1900年に、4回目の大規模な「押出し」を行おうとしました。警察は、東京に向かう住民たちを力ずくで制圧し、100人以上を逮捕しました。川俣事件と呼ばれる出来事です。その翌年、田中正造は衆議院議員を辞職した上で、鉱毒事件の解決を、天皇に直訴します。※1 この二つの出来事が新聞で報道・拡散されたことで、被害を受けた人々にたいする世間からの同情と共感が、爆発的に高まりました。被害地の状況を調べる大規模な視察団が結成され、その結果を伝える報告会が各地で開催されました。学生や、キリスト教系の団体を中心に、被害住民を救済する活動も広がりました。有名なジャーナリストや宗教関係者たちが、それを後押ししました。内村さんも、「鉱毒調査有志会」の調査員に選ばれ、視察に加わりました。
内村さんと鉱毒事件のかかわり。田中正造との交流。それについては、とりあえず後回しにして、田中正造のそれからを、ざっと見ておきましょう。
政府は、鉱毒問題を根本的に解決するには、渡良瀬川の洪水を防がなければならない、と主張しました。そのためには大規模な治水事業が必要なんだ、って。それで、洪水対策の柱として、洪水が発生しやすい地域を遊水地にするというアイデアを打ち出したのです。そうなんです。この時の計画が、現在の渡良瀬遊水地につながっているんです。
お金を払って土地を買い取りますし、移住先も紹介しますから、ここから立ち退いてください。そんなふうに、国は住民にもちかけました。要請を受け入れた人もたくさんいましたが、拒否した人もいました。〝この土地で暮らしつづけたい。自分たちの村を守りたい〟って。当然の反応ですよね。※2
わたしも、このやり方はヘンだと思います。洪水の被害が減るのは、悪いことではありませんね。でも、もともとは、鉱毒による川の汚染や、山林のはげ山化が、問題だったはずです。解決を求める住民たちを、暴力で抑えつけたことも、問題だったはずです。政府や、足尾銅山を経営する古河市兵衛は、まずこれらのことを反省し、謝って、この先どうするのがベストなのかを、住民と相談して考えなければなりませんよね。でも、きちんと話し合いをせず、洪水対策という名目で、立ち退きを迫ったのです。お金の力で従わせ、生まれ育った土地を奪い、〝公害〟問題を隠そうとしている。そのように感じて、何が何でもこの場所に残ると決心した人々の気持が、わたしにはわかる気がします。
1904年、田中正造は、栃木県の谷中村に引っ越し、村の土地の買収に反対する運動に、地元住民と協力して取り組みます。その中で、〝神から恵まれた自然を、傷つけてはならない。人間も自然の一部なのだから、自然を尊重し、自然と融合しながら生きてこそ、幸福になれるはずだ〟という信念を、深めていきました。ですが、政府の計画を止めることはできませんでした。谷中村は廃村になり、村に残っていた住民の家は強制的に破壊されたのです。それでも田中正造は、粗末な小屋を造って、少数の住民たちと村に踏みとどまりました。そして1913年に亡くなります。その時の田中正造の持ち物は、『新約聖書』や大日本帝国憲法、日記帳、河川調査のメモ、鼻紙、川海苔、小石3個など、ごくわずかだったそうです。※3 残っていた住民も移住してしまい、谷中村は無人の地になりました。※4
田中正造は最後まで地道に活動を続けましたが、勢いが徐々に失われていったことは事実です。たぶんその最大の要因は、足尾銅山に注目する世の中の空気が、短い期間で冷めてしまったことでしょう。多くの日本人が、1904年に始まった日露戦争に気を取られて、この国で最初の〝公害〟事件を忘れてしまったのです。
※1
田中正造は用意していた訴状を明治天皇に手渡す前に、警官に取り押さえられました。しかし新聞の号外によって、田中の行動と、直訴状の内容は、すぐに知れ渡りました。田中は死刑を覚悟していましたが、釈放されました。ちなみに、『万朝報』で内村さんの同僚だった幸徳秋水が、直訴状を書くのを手伝ったそうです。
※2
この出来事をきっかけに、谷中村から北海道に移住し、土地を開拓した人々もいました。北海道の佐呂間町に、〝栃木〟という地区があるのは、彼らが、自分たちの出身県の名前を付けたためです。
※3
『田中正造文集(二)谷中の思想』 小松裕「解説」、岩波文庫 396頁
※4
渡良瀬遊水地内には、ごくわずかですが、谷中村の史跡が保存されています。機会があれば、訪ねてみてください。
※5
「石狩川鮭魚減少ノ源因」(『内村鑑三全集』1巻、岩波書店)72頁