「だったら、月曜日に作業をしている区役所まで来てちょうだい。これから役所の上司の許可をとって、OKが出たら、こちらから迎えの車を出すわ」
そして月曜日、車は、予定時間よりも1時間遅れで宿の前に現れた。ナリアが仕事のために雇っている運転手付きの車だ。その古いソ連製の車に私と篠田が近づいていくと、助手席の男性が出てきて、「申し訳ない。ガソリンを入れるのに手間取って」と、遅刻を詫びる。その気のよさそうなムラート(黒人と白人の混血男子)こそが、初めて会うナリアの夫、ミチェル(42)だった。経理を担当するナリアは今、ハバナの南西にある地区の区役所で、監査役と作業を続けているという。
車に乗り込んで30分あまりで、私たちはその区役所に着いた。
「少しここで待っていてください」
ミチェルはそう言うと、車を降りて、役所へ入っていく。建物の前には、何やら大勢の男女が集っている。その中の一人、60代くらいの白いシャツの男性に、皆が「おめでとう」と声をかけては、握手をする。何か祝い事があったのだろうか。
しばらくして「もうすぐナリアの所へ行けますから」と戻ってきたミチェルに、集まっている人たちは何をしているのかと尋ねると、「さっき新しい区長が決まったんですよ」と、教えてくれた。
彼によると、使途不明金について追及された前区長が辞職したため、新区長の選出が行われたのだという。しかも、辞職した区長こそが、ナリアたちに発注した区役所改修工事の予算申請手続きを怠り、工事費未払いの原因をつくった張本人だった。
区長は本来、事業実施を決定した年度に、その予算を財務価格省に申請しなければならない。そうしないと、お金は準備されないのだ。その結果、ナリアたちは、区役所の上階3フロアの改修を終えたにもかかわらず、その工事費をまったく受け取っていなかった。建築資材費と作業員として雇った労働者10人の賃金はすでに支払ったので、本人たちは赤字状態だ。だから、新区長の下で、すでに完了した工事費用の支払いをできるだけ早く財務価格省に申請するために、必要な書類を猛スピードでそろえているのだ。
未来を描く力
「よく来てくれたわ。散々待たせてごめんなさいね」
監査役の女性二人と書類の山に向き合うナリアが、椅子を立ち、私たちを抱きしめた。作業に一区切り付けられそうだからと、5階にある作業中の部屋まで呼び入れてくれたのだ。しかし、作業はこのあと夜10時過ぎまではかかるだろうと言う。まだ5時間近くもある。
「まるで日本人のように働くのねっ」
度を越して働くさまに驚いてみせると、「まあ、そんなところね」と苦笑する。やりとりを眺めていた監査役も、和やかな笑みを浮かべる。
ナリアは、一緒に来た夫に、まず自分たちが工事を担当した上階フロアに私たちを案内するよう、促した。さっそくエレベーターで上がり、新品の窓枠やブルーを基調とした内装で新築のように綺麗になったフロアを歩く。「僕は作業監督で、彼女が内装デザインを担当しているんです」と、ミチェルが説明する。廊下などに設置された看板類も、ナリアのデザインだという。もともとカメラマンである父親に習っただけあり、写真や色の使い方は悪くない。
見学から戻ると、ナリアが、私たちを隣の空き部屋へと案内してくれた。しばし休憩を取るという。
「少しゆっくりしましょう。さあ、何でも聞いてちょうだい」
と、私たちに椅子を勧める。その様子から、彼女が役所で信頼を得ていることがわかる。
私は一番気になっている「借金」のことを、まず聞いてみた。いつ支払われるのか。
「多分年明けになると思うわ。今は必要なお金を友人に借りて、何とか前へ進んでる」
ほかの事業を行う資金を友人に借りては売り上げから返金し、残りのお金で生活する日々が、半年近く続いているという。
「大変だけど、何とかなるものよ。家族や友人が支えてくれるから。それに何より、私はこの仕事が好きだから」
笑顔で語る彼女に、こんなことがあっても役所相手の仕事を続けるのかと尋ねると、こう応じた。
「国家機関との仕事は、(間違いを含めて)すべてが明確なところがいいの。個人と商売をすると、依頼内容がコロコロ変わったり値切られたりと、駆け引きばかりで大変になる。それがない分、自分の仕事に集中できるところがいいわ」
自らの仕事に、大きなやりがいを感じているようだ。
「私はね、内装デザインの仕事が大好きなの。キューバのように、いろいろなモノが不足している国にいても、この仕事でなら、想像の翼が広げられる。自分のアイディアを、自分の手で形にできる。自分のイマジネーションと創造力が生かせるのよ」
ナリアにとって、仕事はお金儲けのためというより、自分の想像力で新しいものを創り出す醍醐味を味わうためのもののようだ。仕事を楽しみながら、祖国で未来を切り開こうとしている。
「資金ができたら海外にも出かけて、内装デザインについての新しい知識や情報を得たいわ。そして、もっといい仕事がしたい。家族のいるこの国で、自分たちの夢を育てていきたいの」
そう言った直後に、「むろん、あなたたちも家族の一員よ」と言い添えた。
家族といえば、ナリアは、両親の離婚後、ずっと母親と義父、新たに生まれた弟妹と共に暮らしていた。ところが、中学生の時に母親が急死し、ナリアは幼いきょうだいの母親代わりも務めなければならなくなったという。その一方で、父親が自分の母親以外で妻にした女性たちや、彼女たちとの間に生まれたきょうだい5人とも、とても親しくしている。つまり、互いを受け入れ、思いやり、信頼し合える者こそが、ナリアの言う「家族」なのだ。
社会的な男女格差がなく、経済的理由で離婚を踏みとどまる夫婦は少ないせいか、離婚や再婚が珍しくないキューバでは、親同士の関係にかかわらず、子どもは両親やきょうだいとのつながりを保てるよう、配慮する家庭が多い。そんななか、ナリアは、自分の「大家族」との絆を大切にしてきた。そのつながりの中で未来を築いていくことが、彼女の夢だ。
様々な「不足」に喘ぐ国で、自分の夢を追うことは、容易ではない。海外から資本を送ってくれる家族や親戚がいるわけではないナリアのような人間にとっては、なおさらだ。