医療ミッション
奉仕といえば、キューバの医師・看護師は、海外での災害時にいち早く、どんなに過酷な現場にでも駆けつけることでも知られる。2014年に西アフリカで、エボラ出血熱の拡大が深刻な問題となった際も、どこの国よりも多い250人以上の医療チームが、現地へ駆けつけ、約半年間、命がけで治療にあたった。しかも、医師の一人は活動中に感染し、スイスで治療を受けた後にキューバで静養していたが、完治したら現場へ戻った。キューバ政府の発表によれば、過去55年間に、のべ60万人を超えるキューバ人医師・看護師が、世界のおよそ160カ国で活動してきたという。
こういった海外での医療ミッションは、緊急支援や貧困国への援助ではない場合、現地政府とキューバ政府の契約により、有償で、現地の医療関係者が行きたがらない厳しい環境の土地へと派遣されているそうだ。その結果、ミッションは、主要産業である観光業以上の外貨収入を、キューバにもたらしてきた。米国メディアなどは、この点を、「キューバ政府は医師を外貨稼ぎに利用している」「報酬の大半は政府が取り、医師や看護師はその一部しか与えられていない」などと批判している。
キューバ人の間でも、「政府がミッションにばかり力を入れるから、国内に残っている医師の質が落ちた」「医師や看護師は、収入アップを目当てにミッションに行きたがる」などという不満も聞かれる。が、一方で、キューバとは比較にならないほど深刻な貧困と医療の欠如に悩む国や地域で活動する医師たちに、誇りを感じる人も多い。
キューバ社会において、医師は尊敬され、給料も高い職業だが、それでも日本円に換算すれば月収はせいぜい4000円程度で、キャリアと高いスキルを持つ人でも1万円に満たない。ただし、ミッションに参加すれば、月収自体も大幅に上がり、月5000円ほどの特別手当も入るため、家族の暮らしぶりを良くすることができる。ドクトーラも、3年間、中米グアテマラへのミッションに参加したおかげで、今の自宅を手に入れることができたと話してくれた。しかし、志願したからといって、必ずしも参加メンバーに選ばれるわけではなく、そればかりをあてにしても仕方がない。結局は、常に使命感を持ってスキルを磨き続け、人々に奉仕しようという情熱を失わないことこそが、キューバの医師にとって一番大切なのだ。
ドクトーラは言う。
「私が学生だった頃は、今よりも生活が大変でした。それでも、今ほどお金に執着する人は、多くなかったと思います。私たち医学生は、パソコンもインターネットもないなか、分厚い医学書を何冊も、寝る間も惜しんで勉強し、朝になれば学校へ行くという生活を送っていました。医師免許を取った後も、スキルアップしようと、働きながら学び続けました。私たち一人ひとりがしっかりと生き、互いに助け合っていれば、お金にばかり頼らなくとも、皆が幸せになれるはずなんです」
チェのようになる
2019年9月、私たちはドクトーラ一家を再び訪れた。ラウラもすでに大学を卒業して、自宅から少し離れた地域の診療所で働きはじめていた。また、恋人のヘンニは、正式に家の住人に加わった。
訪ねた土曜の午後、家のリビングでは、診療所の夜勤明けに一眠りして起きたばかりのヘンニが、テレビで欧州サッカーを観ていた。スポーツ好きの彼は、サッカーを観るために起きたらしい。やはり夜勤だったラウラは、まだ寝ている。
「ラウラの夜勤は、昼勤に続いての24時間勤務だったから、疲れているんですよ」
というドクトーラの声が、台所から聞こえてくる。
ヘンニは、暑い時期にキューバの男性たちがよくやるように、上半身裸でソファに座っていた。と、その左脇の下の方、腰に近いあたりに、誰もが知る「ゲバラの顔」のタトゥーが見えた。
「そのタトゥー、なぜ入れたの」
「子どもの時、つい入れちゃったんですよ」
と、ヘンニは、照れ笑いを浮かべる。まだティーンエイジャーの仲間入りをしたばかりの頃、学校で英雄ゲバラが医師としても活躍したと教わっていたので、自分も彼のようになりたいと思ったという。
「僕の父も医師で、アンゴラなど3カ国へのミッションに参加しました。その仕事ぶりも尊敬していたので。共産主義者ではなくとも、チェのようになりたいと思ったんです」
キューバの学校の朝礼では、今でも子どもたちが、「共産主義の開拓者として、チェのようになろう」と叫ぶ。その習慣に絡めてのコメントだ。共産主義を目指すかどうかは別としても、ゲバラのようになりたいのは本当だということだろう。
アルゼンチン出身のゲバラは、持病の喘息の発作に苦しみながらも、スポーツを好み、バックパッカーの旅を通して、ラテンアメリカ世界を知ることに夢中な青年医師だった。旅の途中で訪れたペルーのハンセン病棟では、素手で患部を診察するなどして、偏見なく患者に寄り添った。革命戦争中も、敵味方に関係なく治療を施したことで知られる。そんな彼は、キューバの未来に大きな理想を抱いていた。