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11年4月、私は松山大学から中京大学に移りましたが、愛知県と愛媛県とでは状況が違っているのではないかと思っていました。内閣府の調査によれば、11年度の1人あたりの県民所得は愛媛県が47都道府県で上から29番目であるのに対して、愛知県は2番目とはるかに上位です。奨学金の利用状況にも大きな違いがあるのではないかと考えたのです。
しかし、その予想は簡単に覆されました。
11年3月末~4月、まだ講義が始まる前に大学キャンパスに出かける機会がありましたが、そこで学生たちの長い行列を見かけました。見てみると建物の中から外に列が続いています。一人の学生に「君はどうして並んでいるの?」とたずねました。するとその学生は、「奨学金の説明会です」と答えました。多数の学生が奨学金を利用しているという状況は、愛知県でも同様であることが分かりました。
奨学金問題についての講義は、中京大学でも大きな反響がありました。11年の秋学期に開講した「教職総合演習」で奨学金問題を取り上げたところ、2名の学生が特に強い関心をもちました。彼らとは演習の終了後も、奨学金について討論を続けるようになりました。
12年夏、その2名の学生が私のところに来て「奨学金制度の改善に取り組みたいので、どうしたらいいか教えてほしい」と言いました。私はできる限りの協力を約束し、「分かりやすい目標を明確に掲げること」の重要性を伝えました。そうして12年9月1日、「給付型奨学金の導入」と「貸与型奨学金の有利子から無利子への移行」を掲げて、「愛知県 学費と奨学金を考える会」が発足しました。
この学生たちの動きは、世の中に大きなインパクトを与えました。「愛知県 学費と奨学金を考える会」が発足して約半年後の13年3月31日、奨学金制度の改善を目指して「奨学金問題対策全国会議」が結成されました。私はこの団体の共同代表となりました。
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学生たちと活動を開始したことによって、私はそれまで以上に学生生活の困難をより深く知るようになりました。特に学生アルバイトの実態が、自分自身の学生の頃とは全く違っていることに気づき、13年6月に「学生であることを尊重しないアルバイト」のことを「ブラックバイト」と名づけました。以降は、「奨学金」と「ブラックバイト」という2つのテーマを切り口に活動を進めました。14年には愛知県の若手弁護士の皆さんと「ブラックバイト対策弁護団あいち」を結成し、学生のアルバイトについての相談、高校・大学でのワークルールの「出前授業」の実施などに取り組みました。
奨学金については活動開始以後、「貸与型奨学金の有利子から無利子への移行」は着実に進み、17年度には「給付型奨学金の導入」が実現しました。アルバイトについても、ブラックバイトへの注意喚起や学生向けのアルバイト相談窓口の設置などが進んでいます。まだまだ十分とは言えませんが、活動は着実に成果を上げています。
1998年4月に大学教員として就職してから、松山大学で13年、中京大学で11年勤務しました。愛媛県、愛知県という東京以外の「地方」で過ごした24年間は、自分自身の「東京基準」が日本国内の限られた地域にしか当てはまらないことに気づき、それを自ら問い直す期間でもありました。
また、90年代半ばをピークに労働者賃金や世帯年収が減少し、2022年現在でも1990年代半ばの水準に戻っていない日本経済の厳しい現実によって、就職してから現在に至るまで「右肩下がり」の時代を私は経験しました。それは60~72年までの高度経済成長、75~90年までの経済の中成長とそれにともなう日本の経済大国化を社会人として経験した世代とは、全く違う時代を私が生きてきたことを意味します。
大学教員になって以来、「右肩下がり」経済の中で多くの学生の声に耳を傾け、彼らが置かれている厳しい現実を理解しようとしてきたこと、また彼ら自身のメッセージからさまざまなことを学んできたことが、本連載「若者のミカタ」につながっています。これまで出会ってきた多くの若者に、私は心から感謝しています。
24年ぶりに帰ってきた東京は、かつて私が過ごしていた東京とは大きく違っているはずです。新天地との新たな出会い、そして若者との新たな出会いからこれからも学び、自分なりのメッセージを社会に発信していきたいと考えています。