矢野さんは大学進学による収益について、「個人にはリスクがある」が「平均値は優位になる」という原理に注目します。個人が教育投資を行っても、それが報われないリスクはありますが、政府の教育投資にはリスクはありません。なぜなら、政府は税収益の平均を手にすることができるからです。このことから学費は「受益者負担」説よりも「政府によるリスクヘッジ」説で考えるのが妥当であり、国による大学への教育投資は拡大すべきだと矢野さんは主張されました。
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矢野さんの立論の特徴は、大学進学による個人の損益だけでなく、それに乗じた政府の利益も考慮することで、「受益者負担」説の不十分さを明らかにした点にあります。特に累進課税制度に着目して大卒者の増加=所得税収増と、政府の利益にもつながっているという点は見逃されがちで重要な指摘だと思いました。また、大学進学によって得られる利益について、「個人」と「政府」を「リスク」という観点から比較して考察を行ったのは、これまでの教育研究にはない独創性をもっています。大きなリスクを伴う個人負担が常態化している現状の教育費の在り方について、リスクの小さい政府はより多くを負担すべきであるという主張は「受益者負担」説への有効な批判となっています。
大学の学費引き下げを求める際、学費が高いことによって「教育を受ける権利が侵害されている」とか、「経済的に豊かでない世帯出身者の教育機会が奪われる」など、「基本的人権」や「教育の機会均等」に基づくマイナス面での議論が数多く行われてきました。これに対して矢野さんの考察は、大学進学によって得られる「利益」というプラス面に注目し、ローリスク・ハイリターンを享受している政府こそが教育投資を行うのが妥当だとし、その結果として大学の学費引き下げを実現すべきという論理構成になっています。権利論や教育の機会均等とは異なる、ユニークかつリアルなアプローチだと言えるでしょう。
また、これまで日本の大学は強固な年齢主義を特徴としてきましたが、「その終わりも近い」と矢野さんは言います。「賃金構造基本統計調査」で近年の年齢別の月収の推移を見ると、高卒20~24歳と大卒20~24歳の月収が上昇しているのに対して、大卒50~54歳の月収は低下しています。これは大学進学の「親負担主義」を支えていた「50代の高い月収」という年功序列型賃金の構造が崩れてきていることを意味します。
さらには、年齢主義を支えてきた「企業内教育の衰退」が進んでいることを示します。リクルートワークス研究所のレポート「日本型雇用のリアル」「日本型雇用の問題は何か」によれば、2023年の1年間にOJT(On-the-Job Training)を受けた割合や自己啓発を行った割合が日本は4割と、他国(アメリカ、イギリス、中国)の7~8割よりもかなり低くなっています。厚生労働省「平成30年版労働経済の分析」に「我が国のGDPに占める企業の能力開発費の割合は(中略)経年的にも低下している」とあるように、日本型雇用と経済成長を支えてきた企業内教育の衰退が進んでいます。これは会社の人材育成機能が低下していることを意味します。そこから、キャリア形成を「会社」から「社会(=大学)」へ移行させることの必要性が浮かび上がります。
こうした年齢主義の終わりは、日本の大学の三大病理「18歳主義」「卒業主義」「親負担主義」を根絶するチャンスだと矢野さんは主張されました。そこには、年齢主義が終焉を迎えると従来のシステムを維持することが困難となるのだから、これを変革のチャンスとして生かそうという狙いがあると思います。
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矢野さんからの問題提起を受けて、私は次のような大学の未来を望みます。政府による大学への教育投資を抜本的に増額させることによって、学費の大幅な引き下げや給付型奨学金の拡充を実現し、「親負担主義」を根絶する。経済的問題が解決すれば、親に学費を支払ってもらわなくても、自分の意志で進学する若者(10代~20代後半)が増加するでしょう。それは「18歳主義」と「卒業主義」の呪縛を打ち破ることにつながります。
また、政府からの教育投資によって豊かになった大学が、「会社」に代わって「人材育成」を担うプログラムを組めるようになれば、社会人の大学入学者も増加することでしょう。新たなプログラムによる学生の多様化は、これまで圧倒的多数を占めていた「18歳~22歳・23歳」の学生と、異なる年齢層の学生との交流の機会も生み出し、大学教育を活性化させることは間違いありません。
矢野さんの今回のお話は、現在の日本の大学の病理を明らかにすると同時に、それを根絶する可能性を示す内容でした。「大学を『会社』から『社会』に戻す」というテーマは、年齢主義の「会社」と「家族」に強く拘束されている大学を、政府による教育投資の抜本的増額で「社会」に戻すことで、大学と学生を元気にする有効な処方箋だと言えるでしょう。