「実はもう一つ、お話ししていない案件がございます」
2014年4月、南スーダンの首都ジュバ。国連基地の一画に建てられた、簡素なプレハブ造りの応接室で、陸上自衛隊の井川賢一派遣隊長がゴクリとつばを飲み込んだ。
外気温は摂氏40度以上。私は当時、東京の国際報道部に勤務していたが、その日は自衛隊が参加している国連平和維持活動(PKO)に関する取材で南スーダンを訪れていた。
応接室の空気がかすかに揺れたのは、私が準備していた質問を一通り終え、席を立とうとしたときだった。
「実はですね……、これはまだどなたにもお話ししていないのですが、今年1月、勤務中に宿営地の近くで銃撃戦がありまして……」
南スーダンではその時、副大統領派によるクーデター未遂事件が発生し、民族が国を二分して殺し合う内戦状態に陥っていた。でも、自衛隊の宿営地近くで銃撃戦があったなどという話は聞いたことがない。一体、どういうことなのか……?
隊長は静かに続けた。
その日、中部のボルを占拠していた反政府勢力が急遽南下してくるとの情報があった。昼の作戦会議でも「反政府勢力がジュバに向かって前進中」「南方からも反政府勢力が北上している」との報告が寄せられた。そして夕方、宿営地の近くで銃撃戦が始まった。
「戦闘に巻き込まれた場合、政府軍と反政府勢力が宿営地の土塁に上がって互いに撃ち合う可能性がありました。当時、国連基地内には多数の避難民が逃げ込み、避難生活を送っていました。政府軍から見れば、避難民は敵であり、虐殺が始まる可能性もあった。さらに政府軍から追われた避難民が、自衛隊の宿営地内にも流入してくるのではないかとも考えました。ある宿営地では過去、避難民を狙った流れ弾に当たって国連兵が死亡しています。私としましては、万が一にも隊員を死なせるわけにはいきません。よって、最低限の自衛だけはさせておく必要があると考え、全隊員に武器と弾薬を携行させました……」
自衛隊員に武器と弾薬を携行させた……?
私は隊長の話を聞きながら、思わず身を硬くした。
大スクープだ――日本の自衛隊は、海外において正当防衛以外には武器の使用が許可されていない。自衛隊はこれまで海外で一発の弾丸も撃っていない。イラクへの派遣では作戦実行部隊に銃弾の装塡が許可されたものの、今回は女性隊員も含めた全隊員だ。ニュースの大きさがまるで違う。
「自衛隊は正当防衛以外では撃てませんよね」と私は事実確認を兼ねて隊長の発言を詰めた。
「ええ、おっしゃるとおりです」と隊長は冷静に答えた。「我々は任務遂行型の武器使用は認められておりません。だから、避難民を守るために撃てとは命じられない。よって隊員には『各自あるいは部隊の判断で、正当防衛や緊急避難に該当する場合には命を守るために撃て』と命じたのです」
私はさりげなく、ICレコーダーがきちんと作動しているかを横目でチェックした。大丈夫だ、録音中の赤が点灯している。証言は録音されている。
隊長もそれを横目で確認した上で、言葉を選びながら話を続けた。
「例えば目の前で避難民が殺されても、それが正当防衛や緊急避難に該当しなければ我々は撃てない。この南スーダンの地においても、我々は日本の国内法に基づいて行動しますから。正当防衛や緊急避難に該当する場合には撃つ、そういう厳しい判断にならざるを得ませんでした」
「でも、もしそのとき『襲撃』に巻き込まれていたら……」
私の質問に隊長は答えた。
「もし私の見通し通りになっていたら、撃っていたかもしれません――」
判断を下した2時間後、隊長が「襲撃」だと思った銃撃戦は、政府軍からの脱走兵が国連基地内に逃げ込もうとした際に互いに撃ち合ったものだったことが確認され、彼は隊員を通常任務に復帰させていた。
されど、全隊員に射撃を許可した判断は極めて重い。あと少しのところで自衛隊が海外で初めて「戦闘」に及んでいた可能性を払拭できない。同時にそれは憲法9条に抵触する疑いのある行為にもつながっていく。
彼の判断は果たして適切だったのか――。
国連基地を出て四輪駆動車でプレハブ造りの簡易ホテルへと戻る途中、私は明らかに興奮していた。これまでの経験から、記事は1面掲載で間違いない。読者から多数の反響が寄せられ、他社も追随するだろう。事と次第によっては、国の安全保障政策にも影響を及ぼす記事になるかもしれない。
部屋に戻って荷物を下ろすと、早速、衛星電話で東京の編集局に報告を入れた。
「よし、わかった」と編集局にいるデスクも興奮気味に言った。「すぐに防衛省担当に裏を取ってもらう。確認が取れるまで待ってくれ」
「このニュースは大きいぞ」とデスクが乱暴に衛星電話を切った瞬間、なぜか嫌な汗が体中から吹き出した。
なぜ自分だったのか――。
新聞記者ならこのニュースの大きさは誰でもわかる。自衛隊関係者ならなおさらだ。それなのになぜ、隊長は初対面の私に、しかも自衛隊にはあまり好意的ではないとみられている朝日新聞の記者に、その情報を「リーク」したのか……。
何かを変えたかった――?
日本国内ではその時、従来の歴代内閣が頑なに拒んできた集団的自衛権の行使を容認すべきかどうかの議論がしきりに交わされていた。同時に、日本が今後「積極的平和主義」を実現していくためには、自衛隊の海外における武器使用基準を見直すべきではないか、との声も各所で上がり始めていた。
国際的な常識から見れば、PKOの中心は今や完全に避難民などの保護を中心とする「文民保護」に移りつつある。隊長の発言は、なんとしても隊員を守りたいという使命感に加え、国際的な潮流に乗り遅れてはいけないというプライドに裏打ちされた、極めて計略的なものではなかったか……。
歯車が音を立てて回り始めていた。防衛省担当は事実の裏取りに駆け回っている。私は数時間で原稿を仕上げ、衛星通信機器を使って送信した。まずは事実を報じるのだという、報道の大義を言い訳にしながら。