手術は約3時間で終了した。
2014年8月、ウガンダの医療チームは、8本の腕と脚を持って生まれた乳児から、2本の腕と2本の脚を切除するという難手術を成功させた。
海外通信社のニュース配信を読んだ私は翌月、ウガンダの首都カンパラの病院を訪れた。
乳児が手術を終えて退院した直後の月曜日。手術を担当した外科医の一人が取材に応じてくれた。
「ウガンダ東部の貧村で生まれたその乳児には出産時、下腹部に2本の腕と2本の脚がついていた。双子の一方の胎児の発達が止まり、もう一方の胎児と結合した『寄生性双生児』だ。消滅した胎児の頭部や心臓は消え去り、もう一つの胎児に結合した腕と脚だけが成長していた。胎児には心臓と肝臓が左右逆についていた」
乳児が生まれると、貧しい村は「悪霊の呪いだ」と大騒ぎになった。すぐさま祈禱師が呼ばれ、神の名のもとで葬られそうになったが、看護師が慌てて救急車を呼び、カンパラの病院に搬送された。乳児の体重は当時5.8キロもあり、その巨大さがさらに村人を不気味がらせた。
編成された医療チームは乳児が長時間の手術に耐えられるよう、体重が10キロになるまで約3カ月間待ってから難手術に挑むことに決めた。手術は無事成功し、世界中から乳児と医療チームに多くの称賛が送られた。
取材後、外科医が村に帰宅している乳児の両親に電話で連絡を取ってくれた。
帰り際、彼が背中越しに告げた。
「一つ、忠告しておこう。彼らの村はとても貧しい。アメリカのテレビ局は取材に200ドル払ったそうだ」
一家が暮らす小さな村は、病院から未舗装路を四輪駆動車で4時間ほど走ったところにあった。泥と藁を練り上げて作った質素な小屋には水も電気も床板すらもなく、鶏と子どもが泥だらけになって遊んでいる木の下で、母親が地べたに座って小さな男児を愛おしそうに抱いていた。
「お医者さんに助けてもらいました」
母親はそう言うと、乳児のオムツをめくって手術の痕を私に見せた。露わになった下腹部には残された2本の脚が不自然な方向についていた。彼が将来歩行できるようになるのかどうかについては、素人目にはわからなかった。
取材の約1時間は 平穏無事に過ぎ去った。ところが両親にお礼を言い、四輪駆動車に乗り込もうとしたときになって、親類の一人が我々のもとに駆け寄り、「取材協力費をいただけませんか?」と強くせがんだ。取材助手が「取材では謝礼をお支払いしていないのです」と事情を述べて断ると、親類は「アメリカのテレビは200ドル払ってくれた、フランスのテレビは300ドルだった」と執拗に食い下がった。
私は仕方なく目をつぶり、助手は私のその仕種を確認してから、カンパラの商店で買い込んできた200ドル分のビールと飲料水を荷台から降ろした。
カンパラの病院に戻って一連のやりとりを報告すると、外科医は当然だといったような表情で「それは良かった」と言い、「そんなことより、この映像を見てください」と旧式のノートパソコンの電源を入れた。
画面には、背中を合わせて座っているような双子の乳児の写真が映し出された。
「新たな結合性双生児です。昨夜遅く運び込まれてきました。私がこの病院に赴任して3年の間に、実にこれが7組目です。異常事態です。なぜこんなにウガンダで結合性双生児が多産されるのか……」
直接お見せしましょう、と医師は突然立ち上がり、病棟に向かって歩き始めた。私がカメラを持って追いかけると、「カメラはバッグにしまっておいてください。周囲や親族を刺激するといけませんから」と厳しい口調で注意した。
病室はまるで、写真で見た戦前の野戦病院のようだった。30畳ほどの仕切りのない部屋に数十のベッドが乱雑に並べられており、その奥に1室だけカーテンで仕切られた3畳ほどの個室があった。
外科医がカーテンを開くと、先ほど画面に映し出されていた結合性双生児の乳児が布団をかぶせられて睡眠していた。外科医はいささか乱暴に布団をはぎ取ると、私に向かって強い口調で言った。
「どうぞ、写真を撮ってください。早く!」
私は急かされるようにしてバッグからカメラを取り出すと、言われるままに2回ほど結合性双生児に向けてシャッターを切った。双子のそばに佇んでいた母親と親類らしき2人の女性が怯えたような瞳で私の行為を凝視していた。
私が頭を下げて個室を出ると、外科医は中の親類とわずかに会話し、少し遅れて個室から出てきた。
「さあ、行きましょう」
外科医は困惑したそぶりを少しも見せずにそう言うと、大股で廊下を歩きながら、「たぶん助からないでしょう」と背中越しに言った。
「助からない?」
「ええ、たぶん無理でしょう」と外科医は言った。「先日報道された結合性双生児を除けば、私が手がけた7組のうち、今も生存しているのは1組だけです。彼らは幸運にもそれぞれ独立した臓器や骨を持っていた。私の腕が悪いわけではありません。ここでは治療設備が整っていないのです。可哀想な乳児を救うためには、やはりお金が必要です」
外科医は急に立ち止まり、私を振り返って言った。
「どうです、私と組みませんか? 私はこの分野で世界的な権威になれると思います。あなたは記事がたくさん書けますよ。私はそれらの報告をもとに研究費を集める。どうですか? 悪くない話です」
私は彼がそれを冗談で言っているのか、それとも本気で言っているのか、 判別がつかなかった。
しばらく間を置いてから、彼は寂しそうな表情で続けた。
「アフリカでは欧米とは違い、育つ見込みのない子は治療しません。お金もかかるし、親も子も不幸なだけだ……」
足音がして振り向くと、病室で双子の側にいた親類らしき女性がこちらに向かって駆け寄ってきていた。
「外国の新聞社の方ですよね?」と彼女は私に英語で聞いた。「さっき、写真を撮りましたよね。それは結構です。でも、どうか取材協力費をいただけませんか?」
外科医のほうに視線を向けると、彼はすましたような表情で「どうぞ、お好きに」と私に言った。
私は約7秒間考えた。そして大きく一つため息をつくと、背負っていたバッグからカメラを取り出し、その親類らしき女性と外科医の目の前で撮影した2枚の双子のデータ画像を削除した。
(2014年9月)