福島の原発被災地を取材する人で、吉沢正巳さんの名前を知らない人はいない。福島県浪江町にある「希望の牧場」の代表として、原発事故後、避難区域に置き去りにされた牛たちの世話を10年以上続けている人物だ。一方で、その名前が新聞やテレビといった大手メディアで報じられる機会は驚くほど少ない。「激しすぎる」のだ。「カウ・ゴジラ」と呼ばれる牛の模型をあしらった街宣車に乗り込んで、国会周辺や東京電力、福島県庁、東京五輪の聖火リレーの会場に乗り込み、大音量で演説をぶちまける。「東京電力は『被災者に寄り添う』なんて噓を言うな。十分な賠償金も支払わないくせに!」「復興五輪? ふざけるな! 福島は復興なんかしていないぞ!」。一見、過激にも思えるその主張は、よく聞いてみるとほとんどが事実であり正論でもある。吉沢さん、なぜあなたは叫び続けるのですか? (三浦英之)
原発が爆発しても牧場にとどまった
三浦 2011年3月11日に地震が起きたとき、吉沢さんの周囲はどのような状況でしたか?
吉沢 福島県二本松市にある会社「エム牧場」の浪江農場の現場責任者として330頭の牛を預かり、黒毛和牛の繁殖・肥育をしていました。地震が起きたときは買い物をしていて、津波が来るという放送を聞いて急いで牧場へ戻ったんです。牧場は停電していて牛の飲み水が出なくなっていたので、ディーゼル発電機を使って少しずつでも飲めるようにしたりしていました。翌朝、この牧場に福島県警の通信部隊が来ました。彼らは、ヘリコプターで福島第一原発の上空から撮影した映像を、この牧場を中継して県警本部に送っていたんです。ところが、1号機が爆発して、県警本部から撤退命令が出された。「われわれは申し訳ないけど帰る。もうここにはいないほうがいい」と彼らに言われました。でも、私は牛がいるから避難はしませんでした。
三浦 3月12日早朝、5時44分に政府が福島第一原発から10キロ圏内に避難指示を出しました。この牧場は原発から14キロ離れているので、その時点では政府の避難指示の区域から外れていたわけですね。ところが、15時36分に1号機が水素爆発をし、18時25分には政府が20キロ圏内に避難指示を広げました。浪江町では政府からの避難指示を確認できないまま、報道で状況を知った馬場町長が、12日の早朝に浪江町の中心部の住民を津島地区へと避難させ、15日には隣接する二本松市への再避難を決めています。そうしたなか、牧場に残ることで被ばくするかもしれないという恐怖はありませんでしたか?
吉沢 被ばくが怖いというよりも、牛をどうしようということばかり考えていました。同居していた姉と甥には、危険だから早く逃げるように言ったんですが、不便な体育館の避難所を嫌がって、彼らもしばらく牧場にとどまっていたんです。14日には、牛舎で餌をやっているときに3号機が水素爆発をして、花火が破裂するようなものすごい音が響きました。15日には4号機も水素爆発をし、2号機からは大量の放射性物質が放出された。牛たちは取引先から買い取りをキャンセルされてしまい、もはやこれまでかと思いました。同居していた二人には、15日に牧場を離れて二本松市へ行き、その後千葉の実家へ戻ってもらいました。
東京電力へ乗り込んで訴えた
吉沢 そんなときに、東電が原発から撤退するという報道を見て、その無責任さに怒りがこみあげました。一方で、自衛隊は決死の覚悟でヘリコプターから原発へ放水していた。そこで私は、居ても立っても居られなくなり、車にスピーカーを載せて国道4号線で東京へ向かったんです。もともと反原発の立場で町長選挙などにも出ていたので、この原発事故には声を上げなくてはならないと考えていたんです。
17日の夜に東電本店に着くと、報道の中継車と機動隊の車でいっぱいでした。「明日は警察に許可をとって、ここで演説するんだ」と決意して、その日は眠れないほど興奮していました。そして、18日早朝に東電本店へ乗り込んだんです。おそらく原発事故のあと福島県民として東電へ乗り込んだのは、私が最初でした。