「330頭の牛がたぶん全滅する。もう俺は帰れないんだ。弁償しろ」「自分たちのつくった原発の事故を止めずに、なんで撤退して逃げるんだ」「自衛隊とともに死んででもこの原発をおまえたちが止めるんだ」。応対した東電の総務の担当者は、泣きながら私の話を聞いていました。1週間、東京で野宿をしながら、東電、原子力安全・保安院と抗議して、農水省に牛を助けてくれるよう申し入れました。それから、「枝野官房長官に会わせろ」と首相官邸にも行きました。
三浦 震災直後、枝野官房長官は、原発事故について「ただちに影響はありません」という発言を繰り返していました。「ただちに影響はない」と言っても、「そのあとに」については影響があるのかないのか。私は当時、宮城県の沿岸部で津波の取材をしていたのですが、テレビなどでこの発言を聞き、政府の中枢にいる人間として、特に福島で暮らしている人々に対し、あまりに無責任ではないかと感じていました。
吉沢 政府としては、パニックになるのを恐れたんでしょうね。実際、原発事故を受けて全町避難となった浪江町の住民はパニック状態でした。いきなり放射能だと言われても、シーベルトもベクレルも何だかわからない。とにかく着の身着のままで、避難するにしても燃料もないし道路も壊れていて移動できずに体育館へ押し込められていたわけです。目の前でこんな大事故が起きているのに、官房長官の発言を聞いて「この野郎!」と思いましたね。
国からの殺処分命令
三浦 避難指示が出されて、他の同業者の方々は、牛たちをつないだまま、あるいは「放れ牛」にして、避難していきました。吉沢さんは、東京から戻られたあと、どのように牛たちの世話を続けたのでしょうか?
吉沢 牧場の社長が「牛たちに餌を届けて、見捨てないようにしよう」と言いだしたんです。牛たちは、牛舎に入れたままだと全滅するので、社長が放し飼いにしました。それからは、被ばくを覚悟しながら、3日に一度、立ち入りを制限するために設置されたバリケードを越えて、牧場に餌を置きに来てはすぐ帰るということを繰り返していました。放置された近所の酪農家の牛舎に行ってみたら、牛たちは餓死寸前でまさに生き地獄でした。
三浦 5月12日には、政府が、福島第一原発から20キロ圏内の家畜を殺処分しろという指示を出しました。そうしたなかで、他の同業者の皆さんは、やむを得ず牛たちを殺処分していきましたね。
吉沢 牛飼いとして、牛を見捨てたらもう二度と牛の世界には戻れない。だから、社長と二人で「全頭殺処分という国の命令には絶対に従わない」と決めました。2011年7月には、「希望の牧場・ふくしま」プロジェクトを立ち上げて、ライブカメラで牛たちの様子を配信したりサポーターを募ったりして、2012年に一般社団法人化しました。牛の餌代だけでも1カ月に60万円はかかります。今までは、希望の牧場を理解してくれる全国の支援者の皆さんの募金に頼ってやってきました。ただ、コロナ禍でそれも底をついてしまって、今は東電の賠償金を切り崩しながら、なんとかやっています。
2010年に宮崎で口蹄疫が流行したときには、約30万頭の牛や豚が殺処分されました。口蹄疫の場合は、法定伝染病だから、なんとしても殺処分しなければどんどん広がってしまいます。ところが、原発事故の放射能汚染というのは、べつにうつるわけでもないし、単に被ばくして売れなくなったということだけなんです。
このようなことは牛だけではなくて、避難生活のなかで、さんざん言われたことです。「放射能がうつるから来ないでくれ」「福島のものはいらない」「福島から嫁はもらうな」。福島の人たちは、避難しながらあちこちでひどいことを言われたんです。
三浦 この希望の牧場は、日本のメディアよりも、海外のメディアのほうにより多く取り上げられている印象を受けます。吉沢さんは、国からの殺処分命令に逆らって、牛をずっと殺さないで飼い続けている。私もメディアで働く人間ですが、日本のメディアは、国の言い分については素直に報じるけれども、国に対して反対意見を述べる人たちに対しては、どこか冷たいところがあります。
吉沢 ここで牛たちが生きていること自体が、「反政府的」になりますからね。国は今、原発の再稼働や、小型原発の建設計画を進めています。私は日本だけではなく、フランスやインドやヨルダンなど海外でも講演をしたりして、「福島の原発事故を忘れるな」「浪江町を忘れるな」というメッセージを発信し続けています。この「希望の牧場」で生き抜く牛たちは、原発事故がいかなるものであったかを物語るシンボルであり、メモリアルであり、忘却を防ぐための砦となる存在なんです。