三浦 吉沢さんは、「怒りの人」だと感じています。吉沢さんが東京五輪の聖火リレーの際、沿道に詰めかけた浪江町の請戸(うけど)漁港の若い漁民たちに対して、「汚染水が流されて、おまえたちはそれでいいのか」と言って怒っていたのが印象的でした。大漁旗を掲げた若い漁師たちと喧嘩寸前になっていましたよね。国や東電だけではなくて、地元の人とも闘うことには、どのような思いがあるのでしょうか?
吉沢 汚染水が流されたときに、原発から一番近い漁港が請戸なんですよ。請戸漁港は浪江町の看板なんです。「うけどん」という公式キャラクターをつくってキャンペーンもやっている。その看板を汚されるというのは、単純に悔しいという思いがあります。
今、もし車(「カウ・ゴジラ」)で乗り込むとしたら、2020年に双葉町に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館に行きます。文部科学省は、伝承館を全国の子どもに見せるよう積極的に案内していて、各地からバスでたくさんの子どもがやってくる。しかし、伝承館での展示を見ても、なぜこの事故が起きたかっていうことは伝わってきません。われわれはなぜ自分たちの土地を追い出されて、もう戻れないのか。亡くなった馬場町長の言っていた「無念の流浪の町にされた」という怒りは、忘れてはいけないと思います。
被ばく牛とともに生きる「希望」
三浦 廃炉については様々な議論がありますが、東京電力が言う40年から50年の間に廃炉にするというのは、ほぼ不可能だと思います。そもそも廃炉とは何かという定義でさえ明らかではないし、燃料デブリを本当に取り出すことができるかどうかもわからない。そして事故から11年たった今でも、浪江町の多くの人がいまだに自宅に帰れないままです。そうした絶望的な状況のなかで、吉沢さんはここを「希望の牧場」と名付けていますよね。「希望」という言葉に、どのような思いを込めたのでしょうか?
吉沢 震災後、「絆」と「希望」という言葉がよく言われましたが、町民もバラバラになってしまって、かつての絆というのは、もうなくなってしまったように感じています。震災後の10年間、最後の拠りどころが希望だったんです。希望というのは、自ら考えて、自らの行動によって、自らがつくり出すものです。自分のなかで考えているだけではダメで、勇気を奮って矢面に立たなければいけません。矢面に立てば、いろいろな圧力や攻撃をもちろん受ける。けれども、それを糧としながら生きることで、存在自体が希望だと言われるようになるんじゃないかと思います。
この「希望の牧場」は、原発事故によって人間が命をどう扱ったかということを、問いかけています。私は、この被ばく牛とともに生きて、被ばく牛とともに死んでいく。だけど、今のところは、かえって元気がいいんですよ。ひどい目に遭ったけれども、それを自分の行動へのバネとしている。殺処分命令を受けたこの牛たちとともに生きる人生、私にとってそれこそが希望なんです。