最近、被災地を取材で回っていると、ある変化に気づかされる。いわゆる「震災の伝承」と呼ばれる作業が、かつてのように時間的に余裕のある高齢者によってではなく、社会活動に積極的な将来を担う10代や20代の若者へと確実にシフトしてきている点である。福島県富岡町で語り部の活動を続ける24歳の秋元菜々美さんもその代表的な一人だ。大震災を主体的に体験した大人たちの視線や言葉ではなく、その傍らで、当時まだ未成年だった彼らはあの日、何を感じ、なぜいま、それを自らの口で語ろうとするのか。(三浦英之)
13歳で経験した3.11と原発事故
三浦 震災当時、秋元さんはまだ中学1年生でした。ちょうど、子どもと大人の中間くらいの時期だったんじゃないかと思います。地震や津波が起きたとき、どのようなことを感じていましたか?
秋元 そうですね。2011年3月11日、私は富岡町の中学生で、大きな地震が起きたときには友人4人と一緒に学校の近くのセブン-イレブンにいました。ちょうど『週刊少年ジャンプ』を立ち読みしていたんです。そしたら目の前のガラスが割れて、駐車場に出ると、津波警報がワンワン鳴って雪も降ってきた。なんというか「この世の終わりだ」と感じました。ただ、私にとっての一番の関心事は、そのとき隣で泣いている友だちをどう励ますかということで、とりあえず学校に戻り、親が迎えに来てくれるのを待ちました。親に連れられて帰っていく友だちに、「またね~」といつものように手を振ったりして。
三浦 そして、福島第一原発で未曽有の原発事故が起こります。福島第二原発が立地する富岡町の中学生だった秋元さんにとって、当時、原発はどのような存在でしたか?
秋元 私が生まれ育った富岡町には、「エネルギー館」という福島第二原発の情報センター(現・東京電力廃炉資料館)がありました。燃料棒のレプリカなどが展示されていたのですが、そこは同時に子どもたちにとっての遊び場でもあったんです。ゲームコーナーがあったり、ボールプールがあったりして、子どもにとっては楽しい場所でした。学校の授業で福島第二原発内に入ったこともあって、原発についてはいろいろと教えられてはいましたが、地震のときに原発が大丈夫かどうかについては正直考えませんでした。
三浦 大津波が起きて、原発が危機的な状況になったあとでさえも?
秋元 はい。翌12日に全町避難をするというときも、「避難」と「原発」が自分の中ではまだ直接結びついていませんでした。実は、3月11日、兄が福島第一原発で働いていたのですが、孫請けだったということもあったのか、当日のうちに帰ってきていたんです。まさか第一原発が爆発するとは思わず、「念のために避難しているだけだろうな」としか思っていませんでした。両親もすぐに家に帰れるだろうと思っていたので、着替えも持たず、家の中にある毛布と貴重品だけを持って、隣接する川内村の避難所に行きました。
ところが、その避難先の小学校で原発が水素爆発をする映像がテレビで流れたんです。薄暗い小学校で1台のテレビをみんなで見ていたのですが、大人たちは誰も言葉を発せずに、ただテレビを呆然と眺めていました。私はその様子を見て、「すごく大変なことが起きたんだ」と思ったことをいまでもよく覚えています。
16日まで川内村にいて、それ以降、大学生の姉が一人暮らしをしていた茨城県に避難し、ワンルームに5人で1週間を過ごしました。そのあと、千葉県の親戚の家を2軒ぐらい回ってから、千葉県の借り上げ住宅で半年間暮らし、福島県のいわき市へ移りました。
中学時代はずっと原発事故について考えないようにしていた
三浦 当時、福島から避難してきた生徒に対する「いじめ報道」がありました。千葉の学校に通っていたとき、秋元さんは嫌な思いをした経験がありますか?
秋元 私自身は、いじめにあったことはありませんでした。避難先の千葉県でも津波の被害があったということもあり、とてもよくしてもらいました。借り上げ住宅のご近所さんも、学校の同級生も、「大変だったよね」と言ってくれて、すごくありがたいなと感じていました。ただ、私としては「富岡町にはもう帰れないかもしれない」ということがなかなか受け入れられなかった。