私にとっては、自分がかつて13年間過ごした富岡町は、「可哀想」と言われるような町ではなくて、すごく「楽しい町」だったんです。「大きな災害に見舞われた」という枕詞が付くことが、とてもつらく、嫌でした。だから、私はできるだけ富岡町出身だということを周囲に言わずに過ごしていました。報道も見たくなかったし、家族ともそういう話をしないようにしていました。
三浦 中学生というのは、思春期であり、アイデンティティを形成していく大事な時期ですよね。親への反発とか、自分への嫌悪感とか、将来への不安に悩んだりする時期に、原発事故は当時の秋元さんにどのような影響を与えたのでしょうか?
秋元 中学時代は、できるだけ原発事故について考えないようにしていました。いまこの瞬間さえ何とか成り立っていればいい、友だちと楽しく過ごせればそれでいい、そう思っていました。でも、そうやって自分がどういう状況にあるのか考えないというのは、結局は自分を大切にしないということだったのかな、といまは分かります。
学校の授業で震災を扱うときには、耳をふさいで机にうつ伏せになって、拒絶するという態度をとっていました。周囲も、それを許容してくれていました。
震災直後の中学2年生のときには、友だちと遊ぶ約束をよくドタキャンしました。いま思えば、精神的にすごくつらかったんだと思います。当時は「めんどうくさい」「行きたくない」と言って、友だちとよく喧嘩になっていました。
3年ぶりの一時帰宅がもたらした変化
三浦 そうしたつらい状況から、少し立ち上がることができたきっかけは、どんなものだったのでしょうか?
秋元 私にとってそれは、高校1年生の16歳のときに、初めて一時帰宅をした瞬間でした。私の自宅は放射線量が高い帰還困難区域にあったので、15歳未満は入ることができなかったんです。3年間、故郷を離れてずっと考えないようにしてると、そこが自分の町であるという現実味がなくなってしまい、その町に住んでいた自分自身も実在していなかったんじゃないかという錯覚に陥ることが多々ありました。ところが、実際に自宅に一時帰宅をしてみると、目の前にまだ震災前の町並みが残っていて、「夢じゃない! 自分の町がここにちゃんとある!」と思ってホッとし、とてもうれしくなったんです。
三浦 ちょっとジーンとくる話ですね。でもその一方で、悲しいことに、秋元さんにとってかけがえのない町(原発被災地)は、年月を経るごとに除染のための解体工事などでどんどん町並みが失われていってしまう。秋元さんはそうした変化を、どのように受け止めていたのですか?
秋元 私が一時帰宅をした数年後には、私の実家にもハクビシンが棲みついてしまいました。ただ、最初に一時帰宅をしたときの実感があったからこそ、様変わりしていく家や町の状況を見ても、拒否反応は起きませんでした。むしろ、「原発事故というのは、こういうことなんだ」と理解できるように変わっていったんです。
高校の演劇部で培った客観的な視点
三浦 秋元さんはいわき市での高校時代は、演劇をなさっていますよね。表現する行為というのは、見たり聞いたりしたことを吸収して、自分の中で変換する作業が不可欠です。演じることによる、苦しさのようなものはありましたか?
秋元 高校1年生のときには、「忘れていくこと」をテーマに演劇を作っていました。震災から3年が過ぎ、いわき市にも新興住宅ができたりして、「震災の風化」が徐々に進んでいた頃でした。そうした中で、自分にとって「忘れていくこと」とは何かと考えながら演劇を作っていくプロセスは、とても貴重な体験でした。
演劇部では、自分や他人の感情について掘り下げていったり、想像したりしながら、ロールプレイングを繰り返し行いました。例えば、自分がムカツいたことに対して、なぜ自分がそう思うようになったのか、何を見てそう思ったのか、誰が何を言ったのか、その人は何を考えていたのか、その人の背景には何があったのか。そうしたことを他の部員と何度も問いかけ合い、徹底的に考えていきました。
また、俳優として自分ではない人物を演じるには、少し客観的な視点が必要になります。演劇を通じたそうした経験によって、原発事故というどうしようもない現実を客観視することができるようになったと思います。
三浦 それは、あるいは僕が書いているルポルタージュに似ているかもしれませんね。ルポルタージュを書くときは、時には自らの視点ではなく、自らの斜め上の後方から全体を俯瞰する視線を持つ必要があるんです。他人の目がどう動いているのか、周囲で何が起きているか、そう広く意識することで、自分がいまどういう場面に出くわしているのかを客観的に表現できるようになるんです。