2011年の原発事故後、「よくあんなものを書くことができたな」と言われることがありますが、直接批判をされたことはありませんでした。編纂委員会の事務局長も、原発に賛成の立場ではありませんでしたし、当時の遠藤正町長が私の聞き取りに対して話してくれたことを反映したものでもあります。私としては、もし町から何か言われたら、もらった原稿料も何もかも返して原稿を全部引きあげるつもりでいました。
なぜ福島に原発ができたのか
三浦 そもそもなぜ東北電力の配電管内である福島県の大熊町に東京電力の原発ができたのでしょうか。原則的に考えれば、自分の管内で発電をし、それを自分の管内で消費するのが、送電コストもかからない。しかも安全については自分たちの管内で維持するのが原則ではないかと思います。それをあえて、東北電力管内に発電所をつくって東京へ大量に輸送しています。
岩本 東京電力が福島に入ってきたのは、明治30年代でした。東京都内には大きな水力発電所を置くことができないため、猪苗代湖に水力発電所をつくり、東京へ電気を送ったのです。そして、第二次世界大戦後になって原発をつくりたいというときに、大熊町の旧陸軍航空基地周辺の平坦な土地に白羽の矢が立ちました。そもそも大熊町は、福島県内でも電気が通じたのが遅かった地域で、近代的な意味での開発が入り込めなかったところなんです。工場を誘致しようとしても来る工場がない。原発を誘致しなければどうしようもないということで、当時の佐藤善一郎福島県知事(1957~64年在職)が誘致を決定しました。町史の中でも触れましたが、日本原子力産業会議の資料を読み解くと、大熊町に原発が設置されたのは、東京から遠くて人口が2万に満たない過疎地域だったからではないかと思います。周辺自治体では浪江町は人口2万を超えていますが、その他は1万前後の自治体で、配慮の対象にならなかったのでしょう。
三浦 大熊町がある双葉郡は他の土地と比べると断崖絶壁が多く、漁業もなかなか難しい。やませの影響で作物が育たない時期もあり、経済的に長く豊かになれなかった地域でした。原発ができる前は、冬になると男性がみんな東京に出稼ぎに行かなければいけなかった。ところが、原発ができたとたんに、税収がものすごく上がり、福島県でも金持ちの町になりました。道路や公共施設なんかも次々できた。冬になっても原発で働くことによって出稼ぎに出なくてもよくなりました。岩本さんが、町史をつくられた1977年からの8年間というのは、大熊町がにぎわって、非常にお金が回っていた時代だったのではないでしょうか。
岩本 そうですね。大熊町史の原稿料は、他の地域と比べて高かったので驚いた記憶があります。「原発ができておっかねえことはおっかねえけども、原発がなかったころには俺たちこんな暮らしできなかったもんな」というようなことは、当時からよく住民の間で言われていました。
原発事故を経てもなお、福島は原発に頼らざるをえないのか
三浦 震災10年を迎えて、復興五輪という名の東京オリンピックが開かれました。原発事故の前から周辺地域の歴史を見続けてきた岩本さんは、原発被災地の復興状況をどのように見ていますか。
岩本 復興はしていないですね。現在でも、線量が高くて帰れない地域や、昼間は戻れるけれども夜は住めないという地域があります。復興というのは、それが起きる前の状態に完全に戻るということで、そうならなければ復興とは言えません。いくらお金をつぎ込んで、いろんな施設をつくったからといっても、復興が終わったとはとても言えないと思います。
三浦 原発事故後、廃炉工事や津波・地震の地域インフラの整備、いろんな名目で作業員がたくさん流入してきています。しかし残念なことに、一度地元から出て行った若い人は、なかなか戻ってこないんですよね。
岩本 原発ができて金銭的には豊かになったかもしれないけれども、水田単作農村だった昔ののどかさはなくなってしまいました。村に入って話を聞くと農業をやっている家でも会社員になっている人が多いですね。会社勤めで給料をもらって、農家の収入分はおまけのようなものになっています。他に仕事がなくて、孫請けの会社に雇われながら除染の仕事をしている人もたくさんいます。このあたりでは、東京電力ではなくても、その子会社、孫会社に勤められれば御の字なんですよね。給料の額が地元の会社とは全然違いますから。だから、今でさえ、事故が起きなければ原発はあっても別に悪くないという風潮があります。
三浦 原発事故が起きて、それでもまだ原発で食べていかなければいけないということでしょうか。それは、あまりにも悲しい事実ですね……。日本はエネルギーを多く持たない国です。石油も出ませんし、石炭もなかなか厳しい。そうした中で日本が生き残っていくためには、原発というのはどうしても必要なのでしょうか。