水素爆発を起こした東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉郡大熊町。1985年に大熊町が刊行した『大熊町史』の編纂に携わった人物がご健在だ。東北学院大学名誉教授の岩本由輝さん(84)。行政から町史編纂の依頼を受け、「原発は絶対安全と考えているとしたら、それはその人間のおごりにすぎない」と町史に書き込んだ反骨の経済学者は、原発事故や「復興五輪」と称された東京五輪をどのように見つめていたのか。原発から48キロ離れた福島県相馬市のご自宅でお話を伺った。(三浦英之)
『大熊町史』の編纂
三浦 岩本さんは、1977年から8年間かけて、『大熊町史』の編纂に携わり、原発のある大熊町の「電力」の章を執筆なさっています。まずは、岩本さんのこれまでの経歴と、どのような経緯で『大熊町史』に関わることになったのか、お聞かせください。
岩本 1937年に東京で生まれまして、1945年に相馬地方の祖父の生家へ縁故疎開をしてきました。それ以来、ずっと相馬で暮らしています。東北大学と大学院で日本経済史を学び、大学院を出たあと、山形大学で21年間、それから東北学院大学に移って定年まで教職を務めました。
『大熊町史』に関わることになったのは、編纂委員会の顧問だった民俗学者の岩崎敏夫さんに声をかけられたことがきっかけです。彼は私の高校時代の先生でした。
三浦 岩本さんは町史の中の「電力」の章で、大熊町に電気が入ってから東京電力が原発を置くまでの過程を執筆されています。執筆するにあたって、どのように調査をしたのでしょうか。
岩本 町史を編纂するようになった1977年からは、大熊町によく通うようになりました。役場には原発誘致に関する資料がすべて保管されていましたので、官庁資料を使ってとにかく誘致された過程をありのままに記すということに徹しました。今は放射線量が高くて保管場所に入れないので、誘致に関する資料などはもう見ることができないかもしれません。それから、編纂委員会の事務局長だった酒井正直さんが、私に大熊町の住民の意向をいろいろと伝えてくれて、彼とともに聞き取り調査も行いました。当時の住民の話を聞くと、もろ手を挙げて原発に賛成していたという雰囲気はありませんでした。住民は、原発という何だかわからないものを持ち込まれて、本当に安全なのかという不信感を強く抱いていました。
三浦 町議会などの記録としては、住民が原発を自ら誘致し、原発の設置を待ち望んでいたという記載もありますよね。
岩本 あとで何が起きても町から文句が付けられないように、東京電力が何度も町議会で誘致決議を取らせたのです。だから、町議会の記録を見る限りにおいては、町がこぞって誘致したというかたちが取られています。東京電力としては、原発の設置場所は自分たちが決めたけれども、原発の誘致は町が決めたことで、自分たちは来てやったんだという意識を今でも持っているのではないでしょうか。
三浦 町史の中で、岩本さんは「原発は絶対安全と考えているとしたら、それはその人間のおごりにすぎない」という辛辣な言葉を書いています。町史をつくるにあたって、町役場や東京電力などから、内容についての「圧力」はなかったのでしょうか。
岩本 資料を出してもらうために東京電力へも話を聞きに行きましたが、東京電力側が安全だと言えば言うほど、信頼できないなと思って右から左へ聞き流していました。原発というのは、ものすごいエネルギーを持っています。1979年にはアメリカのスリーマイル島原発で事故が起き、世界初のメルトダウンが起きました。原発のエネルギーが暴発したら手が付けられなくなるということだけはわかっていたのです。
さらにそれ以前の1973年には、福島第一原発で、汚染水が建物外に流出するという、日本の原発が始まって以来の事故が起きていました。しかも福島第一原発から事故について大熊町に連絡があったのは、事故発生から22時間もたってからで、そのときの東電の対応は地元を完全にないがしろにしたものでした。町史の最後には、こうした原発事故や原発に対する住民の不安について書き記しています。