「絶望」を抱きしめる
三浦 僕は3年半、福島沿岸部の現実を取材して、前向きに夢ばかりを語る人たちにたくさん出会ってきました。けれども、そういう人たちはどこか政府の政策に乗っかって話している印象を受けてしまう。例えば、東電やその関係者が30~40年で廃炉を実現するといって語られる未来は、どう考えても現実的に無理があります。取り出せるかどうかもわからないデブリや大量の高線量がれきをどこに保管するのか。だからといって、他にどうしたらよいかというのもわからないのだけれど……。
武藤 今、福島第一原発の周辺には、「福島イノベーション・コースト構想」の一環で国際教育研究拠点の設置が計画されています。これは、アメリカ、ワシントン州の「ハンフォード核施設」(ワシントン州)の周辺地域をモデルにすると言っているんです。ハンフォードは、マンハッタン計画において長崎に落とされた原爆の材料であるプルトニウムを製造した施設ですが、その周辺は、深刻な放射性物質の漏洩や実験的な拡散によってアメリカで最も汚染された地域です。廃炉や除染技術の研究所や関連する企業によって発展をしましたが、周辺住民を犠牲にすることを厭わずにやってきた歴史があります。
三浦 ハンフォードに倣って、産学官民の調整役となる「福島浜通りトライデック」という民間組織もできました。今までのように官製ではなくて、市民団体に見えるようになっている……。原子力ムラが市民団体のような顔をして国の原発政策を後押しするという、今までにはなかった新しいやり方にならないか、懸念しています。
武藤 イノベーション・コースト構想は「浜通りの輝かしい未来をつくりましょう」と夢を見せながら、実際には原子力産業が支配をし、やがてまた住民が犠牲にされていくのではないかという不安が、私にはどうしてもあります。原発事故直後から、福島県には「夢」とか「希望」とか「安全」とか「絆」という言葉が氾濫して、みんなで前を向いて進んでいかなければいけないという風潮がありました。私たちは絶望すらさせてもらえなかったのです。
三浦 僕も震災直後、宮城・南三陸で震災報道にかかわっていました。当時は、復興という2文字の言葉に置き換えられて、前向きなメッセージが山のように量産された。でも10年たって振り返ってみると、その多くは行政がつくったまやかしの「夢」や「希望」だったように思います。
武藤 本当は、人々の中に不安がないわけではないのです。でも、何かに背中を押されるように、口をつぐみ「あきらめの境地」へ連れていかれたんじゃないかな。食品汚染や健康被害、あるいは汚染土や汚染水にしても、一見それぞれ別の問題であるように見えますが、実はそうではありません。それらはすべて、「放射能というものは怖くないんだ」という一つの考え方に行き着くのです。放射能が怖くないと思わせることで、現実を見させないようにしている。原発事故から10年たった今から見ると、それらは放射線防護の基準や考え方を大幅に緩め、原子力産業の復活を狙って仕組まれたのではないか、と感じています。まやかしの「夢」や「希望」に惑わされないためには、一度この絶望を、目を凝らして見つめなければいけないと思うのです。生きていく中で大きな出来事に出会ったときには、その事実に絶望して打ちのめされるという過程が必要なんです。絶望をしっかりと見つめるという過程を経てはじめて、私たちは少しずつ立ち直っていくことができるのだと思います。
三浦 本当にそうですね。ここ数年、福島では「放射能は正しく恐れましょう」という言葉が溢れた。「怖い」という感情は、そもそも人間の生理反応で、それぞれの人の捉え方も基準も違う。それなのに、行政や学者などが「正しい」とされる感情を上のほうから押し付けてくる。放射能を怖がるのは正しくないと決めつけられてしまうので、人々は「怖い」という感情を表に出すことさえできません。武藤さんがおっしゃるように、私たちは、いまだに住むことができない場所が福島にあるのだという現実を見つめて、まずはこの「絶望」をしっかりと抱きしめなければいけないのかもしれません。