三浦 僕は、司法記者だった経験もあり、刑事裁判の性質上、被告人が無罪になる可能性は高いと思っていました。刑事裁判の場合には、個人を有罪にするには、誰が見ても疑いないことを明らかにしないといけない。場合によって被告人を死刑にすることもできる刑事裁判は、民事とは違う論理が働かざるを得ない。僕は、東電は有罪だとしても、それを個人の責任として罪に問えるかというと、どうしても不安を感じていました。
武藤 でも、個人として訴えるしか、手段がないのです。無罪判決が言い渡されたときには、「ああ、この国は誰も責任を取らない。司法までもがそうなのか」という、非常に深い絶望を感じました。被害者の誰がこんなことで納得できるでしょうか。
三浦 僕も、誰も納得はできないだろうな、と思いました。東電は、テレビや被災者の前では土下座までして「申し訳ありませんでした」と謝るのに、最終的に責任を迫られるADR(裁判外紛争解決手続)や裁判などでは絶対に譲らない。言っていることとやっていることがまるで違う。被災した多くの方々は、東電のそうした二面性を知り抜いているわけですから……。
武藤 私は、「脱原発福島ネットワーク」(1988年創設)という市民団体で、プルサーマル計画の中止や相次ぐ事故・トラブルの原因追及などについて、東京電力との交渉を30年近く続けてきました。事故後の2年半ぐらいは、中断していましたが、今も2カ月に1回くらい2時間、東電の広報担当者と市民とで交渉をしています。彼らは、毎回「申し訳ありませんでした。ご迷惑とご心配をお掛けしています」と言うのですが、事故後の対応や言動を見てもほんとに彼らが反省しているなという感覚は、とても持てないんですよね。その繰り返しで胃が痛くなるし、本当にイヤになるんです。
三浦 僕も、福島県浪江町の津島地区の原発民事裁判を傍聴したことがあります。津島は、いまだに放射線量が高く、誰一人帰ることができていません。津島の人々の被害は明らかなのに、裁判所で見た東電の反対尋問は本当にひどいものでした。「あなた、こんなにも賠償金を受け取っているのですよね。それでもまだ被害を主張するんですか?」というような質問を延々と続けるのです。加害者側がよくこんな被害者いじめみたいなことをできるなと、そのときは思いました。
武藤 原告の福島の人々が何を失ったのかということが、まったく理解されていないのだと思います。失われたものの深さは、金額に換算することはできません。いろんな裁判の中で、「ふるさと喪失」は失われたものとして認めらないことが多いです。
福島とオリンピック
三浦 武藤さんは、2020年の福島での集会のスピーチで、オリンピックについてこのように話していました。
「莫大なお金がこのオリンピック、聖火リレーにつぎ込まれています。さまざまな問題がオリンピックの陰に隠され、遠のいていきます。オリンピックが終わった後に、何が残るのかとても不安です。私たちは、うわべだけの『復興した福島』を知ってほしいのではなく、たった9年では解決できない問題が山積した、とても苦しい、とても大変な原発事故の被害の実情こそを、世界の皆さまに知ってもらいたいです」(武藤類子『10年後の福島からあなたへ』大月書店、2021年)
僕は、聖火リレーのルートが発表されたとき、12市町村のルートを自分の足で歩いたことがあるんです。武藤さんの文章を読んで、まったくその通りだなと思いました。廃炉原発やフレコンバッグの山が見える場所、作業員やトラックが行きかっているところをいっさいルートから外して、もともと事故がなかった現場の学校周辺や役場の前だけを聖火ランナーに走らせてみたところで、福島の実情はまったく伝わらない。
武藤 最初は、復興五輪と言っていたのに、復興なんかどっかにいってしまった。そのあとのコロナ克服にしても、何も解決していません。最初から全部嘘なんだなと思いますね。
三浦 「復興」と「オリンピック」というのは、実は同じ構図なんだと僕は思っています。政府と市民のあいだに、原子力ムラや広告代理店みたいな組織があって、それらの組織によって国の方向性が、市民不在でつくられていく。今回のオリンピックも、半分以上の人は、コロナ禍での開催は厳しいと思っているにもかかわらず、ブレーキのない車のように開催に向けて突き進んでしまった。コロナ対策をするために、さらに莫大なお金も掛かってしまう。例えば、地方の自治体が事前合宿で選手を受け入れるときには、その選手を運ぶのに新幹線1車両を貸し切ったり、ホテルのフロアを丸ごと貸し切ったりしないといけない。費用は国が補填するというけれども、それはつまり僕らの税金であって、IOCが払ってくれるわけではないんです。その分の税金は、本来ならば、医療関係者や飲食店、映画館とか、コロナ禍で苦しんでいるところに回すほうがいいはずなのに、オリンピックをやめてコロナ対策をしてほしいという多くの人々の声は届かない。こういう状況は、原発をやめてほしいという声を立地地域の人々がいくら上げても、まったく届かないのと同じ構図なんじゃないかと思います。
武藤 福島の原発も東京オリンピックも、最も大切にされるべき命や健康というものが、まったく顧みられていないというのが、一番大きな共通点だと思います。原発もオリンピックも、巨大な力で実現していくために、誰かを犠牲にすることをまったく厭わない。特に私が怒っているのは、子どもを動員するということです。事故後に原発作業員たちの中継基地となったJヴィレッジが、聖火リレーの出発地点に決まり、地元の子どもたちが芝を植え替えるために動員されました。フレコンバッグ置き場だった福島市の運動公園も、野球とソフトボールの会場に決まり、小学生たちが花植えの作業に動員されられたりしました。福島では安全を宣伝するための一番の広告塔に、ずっと子どもが使われてきたんです。オリンピックでも、このコロナ禍の中であっても「学校連携チケット」で子どもを動員しようとしていたことが驚きでした。