東京電力福島第一原発の事故発生から10年。原発事故にまつわる問題は多様化・複雑化する一方であるのに対し、メディアがそれを扱う機会は徐々に減りゆき、人々は原発事故を「過去のもの」だと捉え始めてはいないか。そんな潮流に抗うためにも、10年が経過した今だからこそ、福島の現実を知る人たちと議論を重ねていきたい。
私はこの春までの約3年半、新聞記者として福島に勤務した。過酷な現実の中を必死に生き抜こうとする人々を取材する一方で、この未曽有の原子力災害を今後、どのようなかたちで未来に語り継いでいくのか、ということが大きな関心事の一つであった。つまり、福島における「石牟礼道子」は誰なのか、という問いである。3年半に出会った関係者に聞くと、彼らの多くが「それは類子さんだと思う」と口をそろえた。「武藤さん」ではなく、彼女は被災地で暮らす人々に「類子さん」、あるいは「東北の静かなる鬼」と呼ばれていた。(三浦英之)
東北と「鬼」の存在
三浦 武藤さんは、福島県田村市で里山喫茶「燦(きらら)」(原発事故後に閉店)を営みながら、これまで30年以上にわたり脱原発運動に取り組んでこられました。原発事故後は、福島原発告訴団長や原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)共同代表として、原発訴訟での中心的な役割を担っています。僕が初めて武藤さんのことを知ったのは、原発事故から半年後に東京で開かれた集会9・19「さようなら原発 5万人集会」でのスピーチのときでした。武藤さんはそこで福島の悲惨な現状を訴えた上で、「私たちは静かに怒りを燃やす『東北の鬼』です。私たち福島県民は、故郷を離れる者も、とどまる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い、支え合って生きていこうと思っています」と呼び掛けた。「東北の鬼」という象徴的なフレーズを使ったスピーチは、私を含めた特に東北出身者の心をわしづかみにしました。そもそも武藤さんはどうして「鬼」という言葉を使ったのでしょうか。
武藤 2011年に原発事故が起きたときに抱いたのは、「悲しみの中にある怒り」でした。それを表現したのがあの言葉だったのです。東北の民はかつて、中央政府から「鬼」にたとえられました。荒々しくて、きちんと統治されていない、恐ろしいものとしてずっと扱われてきたのです。ところが、東北に伝えられている民族舞踏の中で表現される鬼というのは、また違った一面があります。例えば岩手の鬼剣舞(おにけんばい)は、鬼のような恐ろしい形相の面をつけた迫力のある踊りですが、実は不動明王などの仏の化身を表現したものなのです。「鬼」というのは、東北の人たちが中央政権にどのように扱われてきたかという、悲しい一面を象徴していると思うのです。
三浦 800年代ころ、蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住んでいる人たちは、中央政権になびかなかったわけですよね。中央の人たちは、力も強かった彼らを「鬼」として討伐し、鬼の首塚や鬼石というものをつくったりした。僕が今住んでいる岩手県一関市にはかつて「鬼死骸村(おにしがいむら)」という自治体までありました。いわば、中央政府が東北をずっと差別し統治してきた歴史が「鬼」という言葉の中にはあります。
武藤 蝦夷の時代の抵抗や、戊辰戦争、明治の自由民権運動など、東北の人々は中央政権に対して常に従順だったわけではなく、激しく抗ってきたという歴史もあります。東北の人の血の中には、そうした静かに燃える怒りが、今でもあるんじゃないかと思っています。
原発裁判に見る東京電力の二面性
三浦 武藤さんは、福島原発告訴団の団長として、東京電力の幹部らに対して2012年に刑事告訴をして闘ってこられました。現在は控訴中ですが、2019年の東京地裁での無罪判決は、どのように受け止めましたか。
武藤 私は38回の公判をすべて傍聴しました。法廷では、今まで隠されていたメールや議事録が証拠として次々に出てきました。例えば、東電社内では文科省の地震調査研究推進本部が2002年に発表した「地震発生可能性の長期評価」を取り入れる前提でシミュレーションをして、15.7メートルの津波が襲来する可能性があることがわかりました。そこでは、津波が来た場合に何メートルの防潮堤が必要になるかを示す図面も作られていた。3人の被告人たち(東電の勝俣元会長、武藤元副社長、武黒元副社長)は大津波が来る可能性があるという報告を受けていたのに、結局、対策は取られなかったのです。