私が福島県南相馬市にある朝日新聞南相馬支局への転勤を命じられたのは、東京でオリンピックが開催されるちょうど1年半前にあたる2019年2月のことだった。
南相馬市は東日本大震災で水素爆発した東京電力福島第一原発から北に約30キロの距離に位置している。政府が発令した原子力緊急事態宣言は未だ解除されておらず、未曽有の原子力災害からの復興はまだ緒に就いたばかりだというのに、翌年に迫ったオリンピックでは東北地方の復興を世界に広くアピールするために「復興五輪」と銘打たれるのだと聞かされていた。私はそんな歴史的な混濁をその象徴たる原発被災地で目撃できることを職業記者として有り難く思うべきなのか、はたまた「復興」と「五輪」という本来は相容れない、お互いが限られた国家予算を侵蝕し合うべき事物を一緒くたにして大騒ぎすることに社会人として深く恥じ入るべきなのか、自分でも考えがうまくまとまらないまま引っ越し業者に連絡を取った。
この時期における南相馬支局への異動は、新聞社全体から見ればいささか特例的なものではあったが(記者は通常3~4年で任地の異動を繰り返すが、私は福島総局に配属されてからまだ1年半しか経っていなかった)、私にとっては(あるいは会社にとっても)半ば織り込み済みだった。
私が当時担当していた東京電力福島第一原発のある福島県大熊町がその春に町内の一部で避難指示が解除される見通しとなり、原発事故以来、故郷から約100キロ離れた福島県会津若松市に拠点を移して業務を続けていた町役場や、県内外で避難生活を送っていた町民たちの一部が8年ぶりに町内に戻ることが確実視されていたからである。3年間のアフリカ勤務を終えて福島総局へと配属された私は、それまで取材のたびに福島総局から車でそれぞれ約2時間掛けて大熊町役場が避難している会津若松市や実際の被災地である大熊町へ通っていたが、避難指示の一部解除に合わせて町役場や町民の一部が沿岸部の故郷に戻るのであれば、取材者である私も大熊町にほど近い南相馬支局へと取材拠点を移した方が何かと便利なのではないかと東京の人事セクションは考えたようだった。南相馬支局は開設以来、ベテラン記者(支局長)が1人で勤務する「1人支局」だったため、今回の異動によって私は栄誉ある「初代・南相馬支局員」として配属されることになった。
上司から正式に内示を受けたとき、私が最初に取った行動はやはり、パソコン上で南相馬市内の放射線量を確認することだった。
もちろん、避難指示が解除された地域については放射線量の値が基準値内に収められていることは十分理解していたし、これまでにも月に何度かは高い放射線が残る沿岸部の帰還困難区域に出入りしたり、防護服に身を包んで東京電力福島第一原発の構内に足を踏み入れたりして、そのつど被曝線量を個人用線量計で管理していた。
しかし、それらは所詮入って出るだけの、いわばスポット(点)的なものであり、そこで長期間寝泊まりして年単位で生活を営むこととはまるで別物であるように思われた。
インターネットで調べてみると、南相馬支局のある南相馬市原町区の空間線量は毎時0.14マイクロシーベルト。国の算出によれば、周囲の空間線量が毎時0.23マイクロシーベルトを超えると、一般の人が1年間に浴びることのできる線量の年間1ミリシーベルトに達する可能性があるという。少なくとも日常生活に影響が出るレベルではない――はずだ。
私は自分に言い聞かせるようにしてパソコン上の画面を閉じた。
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問題は放射線量ではなく、むしろ住居の方だった。
東京電力福島第一原発の半径約10~40キロ圏内に位置する南相馬市では震災直後、南部の小高区には避難指示が出されたものの、市役所などが集まっている中心部の原町区は避難指示の範囲に含まれなかったため、震災後しばらくすると原発事故によって故郷を追われた避難住民や復興事業者などが殺到し、避難生活を送るための家族用アパートや復興作業員向けの単身者用アパートなどが次々と建設された。私が不動産会社を訪れた2019年4月にもその住宅難はまだ続いており、単身者用アパートはどこも満杯で、入居できるのは避難中の家族が退去してできた数部屋の家族用アパートだけだった。
私が契約できたのは2階建てアパートの1階で、家賃7万円の2DK(約50平米)。それまで賃貸していた、同じ間取りの福島市内のライオンズマンションよりも1万円ほど高い物件だったが、周囲の状況を見る限り、あまり贅沢は言えそうになかった。
引っ越しを終えた後、早速、被災地の「現実」を思い知らされた。
昼間は無音だった2階から深夜、大きな罵声と足音が響いた。言い争っているのか、もみ合っているのか、複数の男の怒鳴り声が聞こえる。「会話」に耳を澄ませてみると男は3人、いや4人以上いる。
しまったな、と後悔したが遅かった。物件を借りる際に不動産会社で周囲の騒音などについて確認したつもりだったが、私が暮らす家族用アパートの上階はどうやら、除染などの作業を請け負う作業員たちの飯場(寄宿舎)になっているようだった。その日以降も深夜の罵声や足音は断続的に続き、その声から察するに寄宿する作業員たちは数週間ごとに入れ替わっているようだった。
引っ越しから1カ月が過ぎた6月中旬には、就寝中の午前1時に「オラー、出てこい!」という怒鳴り声とともに私の部屋のインターホンが何度も激しく鳴らされた。眠りを邪魔された苛立ちと「こっちはアフリカ帰りだ、怖いものなんてねーぞ」という根拠のない自信に押されてドアを蹴り開けると、派手なシャツを着た、見るからにヤクザ風の中年と髪を金色に染めたチンピラ風の青年の2人がドアの前に立ちはだかっていた。
「こいつか?」とヤクザ風の中年が聞くと、「い、いえ、違います」とチンピラ風の青年が戸惑いながら答えた。
「すいません、人違いです……」
青年が私に謝るのと同時に、中年は青年のみぞおちに膝蹴りを入れ、「てめえ、ふざけてんじゃねーぞ」とうずくまる青年の脇腹を何度も上から踏みつけていた。
「もう午前1時なんで、寝かせてくれませんか」
私は小さくそう言うと、玄関に鍵を掛けて電気を消した。翌朝、目を覚ましてから不動産会社に苦情を入れると、電話口に出た女性は「他の居住者の方からもお電話がありまして。近くのコインランドリーで2階の住人の方と地元の方が言い争いになられたらしく、相手の方がアパートにまで乗り込んできたみたいなんです」と警察から聞いたらしい事情を申し訳なさそうに説明してくれた。
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そんな住居をめぐる個人的なゴタゴタを福島県いわき市で暮らす木村紀夫さんに伝えると、木村さんは「南相馬もなかなか大変そうだなあ」と心からうれしそうにケラケラと笑った。「今後もそのアパートで暮らさなきゃいけない身としては、そんな楽しい話でもないんですけれどね」と私がいくら説明しても、木村さんはいかにも愉快だというふうにしばらく笑うのをやめなかった。木村さんは東日本大震災で父と妻、最愛の次女を亡くしている。私としては誰かを笑わせるためのネタ話ではないはずだったが、木村さんがあまりにもうれしそうに笑ってくれるので、結果的に心が少しだけ軽くなったような気がした。