ため池からショウブの若葉が顔を出し始めました。太陽の光を反射して輝く水面から、春の訪れを感じ取ることができます。天気が良い日に日当たりの良い農道を歩くのは、何とも気持ちがいいものです。木々の芽が膨らんでいたり、道端に小さな花が咲いていたりするので、自然が命を吹き返す一瞬を見逃すまいと視線が落ち着かなくなります。
そんな頃、どこからともなく“早春の匂い”が漂ってきます。甘いでもなく、清涼感があるわけでもなく、この匂いを詳しく説明するのは大変難しいのですが、毎年、コブシの花芽もまだほぐれないうちに、特徴のあるこの匂いを嗅ぐと、ひと足早い春の始まりを感じます。
実はこの匂いは、ある樹木の花が放っています。その正体はヒサカキ。温暖な地方の里山ならどこででも見られる木で、アトリエの敷地内にもたくさん自生しています。神様に捧げる木にサカキがありますが、ヒサカキはその代用になる神聖な木でもあります。3月頃に長径5ミリほどの小さな花を咲かせます。枝先に並ぶように鈴なりに花を付けるのですが、色はクリーム色から淡いピンク色で、おまけに下を向いて咲くので目立ちません。関心のない人がこの木の横を歩いていても、きっと花には気付かないでしょう。
花に顔を近付けると“早春の匂い”がきつくなります。根気よく花とにらめっこをしていると、どこからともなくハエが飛んできます。ハエは花びらに止まると、アクロバットをするような姿勢で逆さになって花心の中にもぐり込みます。他の花とは異なる独特な“早春の匂い”は、どうやらハエを誘うための匂いのようです。
話は少し逸れますが、私は今まで世界中を旅して写真を撮ってきました。思い出は数え切れないほどありますが、忘れられない出会いの一つがラフレシアです。世界最大の花として知られ、東南アジアに何種類かが見られますが、インドネシアのスマトラ島に自生するラフレシア・アーノルディーという種類は最も巨大で、花の直径が1メートルもあります。私はこの花を求めて何度もインドネシアを訪れ、見事撮影に成功しました。
この花は巨体にもかかわらず、小さなハエに受粉の行為を託しており、広い熱帯雨林の中で効率よくハエを呼ぶために、強烈な匂いを放ちます。百科事典や教科書にラフレシアの花は腐肉のような臭い匂いがすると書いてありますが、実際にはアンモニアのような匂いです。若い人は経験がないと思いますが、昔、旧家のお便所というと汲み取り式で、家屋の外に別棟で設けられていました。その周辺に漂っている匂いが、ラフレシアの匂いなのです。お便所の匂いは、つまりはハエを誘う匂いというわけです。
そして、ヒサカキが放つ“早春の匂い”は、このラフレシアの花の匂いに瓜二つ。つまり、私にとって“早春の匂い”は、雑木林と熱帯雨林が同時に思い浮かぶ複雑な匂いです。
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