優生保護法案が提出されてから「優生保護法制定反対の陳情書」が2度出されたのですが、最終的に谷口の法案は全会一致で可決されました。これには戦後間もない日本が人口の急増に直面し、食糧不足や住居不足が危惧されていたという事情がありました。戦時中の「産めよ増やせよ」から一転、人口抑制政策が望ましいとされる時代状況だったのです。
また、敗戦前に旧満洲(現在の中国東北部)などに暮らしていた日本人の中には、戦後の混乱の中でソ連兵等に強姦され妊娠する女性が少なからずおり、それを「日本人の血が穢(けが)される」「国辱」と考える人々もいました。一方的に押されるそうした「恥辱」の烙印(らくいん)に耐えられず、引き揚げ船から身投げする女性たちもいたと言われます。そして、引き揚げ船で日本の港に着いた妊娠可能年齢の女性たちは全員検査され、妊娠していれば中絶させられました。このあたりの経緯については、『沈黙の四十年――引き揚げ女性強制中絶の記録』(武田繁太郎著、中央公論社、1985年)や『水子の譜(うた)――ドキュメント引揚孤児と女たち』(上坪隆著、文元社、2005年)に詳しく書かれています。
指定医師制度が阻む女性の選択
――優生保護法では「指定医師制度」も新たに設けられました。この制度は母体保護法にも引き継がれ、現在も続いています。指定医師制度の導入にはどのような意図があったのでしょうか。
指定医師制度が設けられる以前、避妊の手段もほぼない中で、さまざまな事情から「産まない」選択をせざるを得ない状況におかれ、非合法の危険な中絶に頼る女性たちも少なくありませんでした。現在では中絶できないとされる時期まで妊娠週数が進んでからの中絶や、麻酔もなしに医師が素手で処置するようなこともあったそうですし、やむにやまれず獣医や歯科医、医師でない人に頼った女性たちもいたと言われています。ですから、優生保護法で各都道府県の医師会が指定する産婦人科医(指定医師)だけが中絶を行えると定めたことにより、中絶に一定の安全性が保障されたという側面はあります。ただ、これをもってして日本の中絶が安全と言えるかといえばまったく別の問題だということは、後編で改めて述べたいと思います。ちなみに、前述の谷口議員は指定医師団体の「日本母性保護医協会(略称「日母」。現在の日本産婦人科医会)」の初代会長に就き、亡くなるまで日母は彼の支持母体でした。
指定医師制度の最大の問題は、指定医師が中絶の業務を独占する状況がずっと続いたことで利権が発生し、現在の日本の中絶が世界標準から非常に遅れた医療になってしまっていることです。
――たとえばどのような例があるのでしょうか。
後編で述べる日本独自の医療技術の問題もありますが、目下の課題は、2023年4月に日本で承認されたばかりの経口中絶薬の扱われ方です。経口中絶薬は、1980年代から世界各国で使われ始めた薬で、2005年にはWHOの必須医薬品(人口の大多数の人が健康を保つために必要不可欠で、誰もがアクセスできる価格で提供されるべき医薬品)にも指定されています。膨大な研究により安全性と有効性が確認されており、世界での薬価は日本円にして数百円から千数百円程度で、先進国では健康保険が効くことも多いようです。カナダとオーストラリアは日本で承認されたのと同じラインファーマ社製の経口中絶薬の使用で3~4万円程度と比較的高額ですが、地域や保険の種類によって一部または全額が補てんされることもあると聞きます。さらに、コロナ禍を機に、世界各地に遠隔医療を用いた「自己管理中絶」(電話やネットで医療専門家の診察を受け、オンラインで経口中絶薬を処方してもらい、自分の裁量で服薬し、その結果、医療サービスが必要かどうか自分で判断する方法)が一気に広まりました。今ではWHOは、この薬は産婦人科以外の医師、助産師や看護師、地域のヘルスケアワーカー、薬剤師も処方できるし、自己管理中絶では中絶を望む本人も扱えるとしています。もちろん、入院は必要ありません。
ところが日本では承認に向けた議論が交わされる中で、「内診やエコー(超音波)検査をしないといけない」「入院が必要」「病院経営上の観点から中絶手術と同等の値段設定(約10万円〜)に」「指定医師だけが取り扱える」といった専門家(産婦人科医)たちの意見が相次ぎました。結論としては、「当面、入院または院内待機で服用」は決定事項となり、また現行の母体保護法がある限り「医師しか中絶を行えない」のは変わりませんが、料金は個々の医師の裁量に任されている(自由診療制)ので、実際にどうなるのかはふたを開けてみないと分かりません。
また、2003年の段階でWHOが経口中絶薬を「妊娠初期については安全な中絶方法」と奨励していたにもかかわらず、厚生労働省は2004年に中絶薬を危険だとする報道発表資料をインターネットで公開し、今も修正していません。私の問い合わせに対し、厚労省の担当者は「いろいろな判断がある」として、削除はしないと回答しています。「いろいろな判断」とは、指定医師たちなど「専門家」の判断だけではなく、反中絶派の議員の意見も含まれているのかもしれませんが。
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望まない妊娠をするのはシスジェンダー女性(出生時に身体を女性と診断され、自分のことを女性だと認識している人のこと)に限らず、妊娠の可能性のあるトランスジェンダー男性(出生時に女性と診断されたが性別違和を覚え、それを解消するために男性になりたい/なろうとする/なった人のこと)やノンバイナリー(男性または女性というカテゴライズに違和を感じ、どちらでもないと感じる人)の人々、若い少女も含まれているが、ここでは話をシンプルにするためと、女性差別の文脈で論じるために「女性」に代表させる。