日本と異なり、海外では長らく中絶が違法とされる状況が続いていました。そこに忽然と登場したのが、女性が主体的に避妊できるピルでした。初期に認可された高用量のピルでは強い副作用が出ることが明らかになったとき、女性たちはピルを拒否するのではなく、製薬会社に「もっと安全なピルを作ってほしい」と働きかけたのです。その結果、より副作用が少ない中用量、低用量ピルが次々に開発され、使用できるようになりました。このように当事者主導で状況を変えてきたことで女性たちはエンパワーメントされ、その後、運動は中絶の合法化へと向かっていったのです。
一方、日本では早くから中絶は実質的に合法でしたが、先ほどお話ししたように、それは女性たちが自らの権利として獲得したというより、優生思想に基づく人口抑制政策の一環として実現したと言えます。だから当事者意識が育たなかったのでしょうし、堕胎罪や配偶者同意要件が存続している現状では、どうしても「中絶をさせていただいている」という意識になりがちです。こういう「お医者様にお任せ」「お世話になる」という姿勢は、他の医療現場でも根強いと思います。日本では自己責任論が根強いせいもあるのか、自分自身の身体や健康に関わることでも、「自分で決めたくない」という人が多いのかもしれません。
つくられた「水子供養」と社会的スティグマ(負の烙印)
――海外との違いでは、日本では中絶をめぐる考え方に宗教的な背景があまり見られないということもあると思います。それでも中絶への忌避感が強いのはなぜでしょうか。
「中絶は悪いことだ」という意識の形成に大きく寄与した一因は、1970年代に人為的に作られた水子供養です。
水子供養の風習は江戸時代からあったと思っている人も多いのですが、中絶した胎児の供養は、埼玉県の紫雲山地蔵寺という、水子供養専用の寺が始めたことがわかっています。この寺の初代住職は右翼の活動家で、1971年の落慶式には当時総理大臣だった佐藤栄作をはじめ、数人の保守派の政治家が参列しました。全国の寺院は地蔵寺の形式を真似て「母の罪」と「水子のたたり」を強調する水子供養を行うようになり、マスコミも大々的に取り上げましたが、時期的にも、国会答弁からも、前述の優生保護法の「経済的理由による中絶」の削除に向けた政治的動きと無縁ではなかったことがうかがえます。つまり、日本における中絶の罪悪視は欧米と異なり、宗教的な倫理観に基づくというよりも、むしろ政治的な思惑を背景に、社会的に構築されたものと考えられるのです。
中絶は女の罪だという解釈が広まったことによって、中絶はスティグマ(社会的な負の烙印)となり、中絶について真っ向から語ることがはばかられるようになりました。ましてや権利として主張することなどまったくできなくなってしまった、ということだと思います。
私がそのことを実感したのは、2003年に中絶の研究を始めたときでした。通常、博士論文を書くときはピンポイントでテーマをみつけ、そこを深めていくのですが、当時の日本に、中絶の権利について体系立った研究はほとんどなく、私の博士論文では、医学、法学、歴史学、倫理学、ジェンダーにまたがる学際研究という形をとることとなりました。2014年に出版した『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ−フェミニスト倫理の視点から』はこの博士論文をまとめたものですが、特に日本の中絶医療の改善が世界に比べて大幅に遅れ、未だに掻爬(そうは)という古い方法が使われていることが中絶をタブーにしてきたという指摘に注目が集まりました。「初めて聞いた」「目からうろこが落ちた」「中絶が女性の権利だと言いづらかったのは、そういうことだったのか」という感想がたくさん届きました。
また、先行研究を調べていたときにいくつか印象的なできごとを知りました。1970年代に世界中の女性たちをエンパワーしたアメリカの名著『Our Bodies, Ourselves』の日本語版 を1974年に出した訳者たちは、訳注の中で次のように日本の現状を示しています。
「日本では(中略)やはり搔爬が圧倒的に多い。これは、真空吸引の技術が遅れているというよりは、日本の産婦人科医の掻爬技術の水準が高いことが原因のようだ。(中略)日本の技術水準なら、むしろ掻爬のほうが安全といえるかもしれない。今のところ日本の女は、優生保護法二十数年の輝かしい伝統によって磨かれた、日本の医師の職人芸に身を託すほかはないようだ。」(ボストン「女の健康の本」集団著、秋山洋子・桑原和代・山田美津子訳編『女のからだ 性と愛の真実』、合同出版、1974年)
中期中絶や麻酔の方法についても、アメリカとは実態が異なることや、日本の医師から中絶時にどのような注意を受けるかなどを淡々と「解説」するばかりで、自力で状況改善のために働きかけようと訴えるアメリカの著者たちの呼びかけに全く答えていないのです。
1998年に出版された『女のからだ わたしたち自身』(森冬実&からだのおしゃべり会著、毎日新聞社)は、妊娠、中絶、出産など、女性のからだに起こることについて女性自身のセルフヘルプを推奨する「進んだ」本ですが、当時の中絶手術費用10万6000円を提示し、「日頃から特別預金をしておく」よう勧めるなど、従来の中絶のやり方や仕組みについて、ほとんどなんの疑問も抱いていないのは非常に残念です。この本には、中絶薬を「とても過激」「『優れもの』とは言い難い」と批判し、「(従来からの)妊娠初期における手術を、安心して行えるようにすることが、『飲む中絶薬』の認可よりも大切」などの記述も見受けられます。当時は登場してまもない経口中絶薬に対して国際的にも賛否両論が沸き起こっていましたから、おそらく時代の制約という面もあったでしょう。
とはいえ、経口中絶薬をめぐる世界の状況がどんどんアップデートされていった中でも、日本の中絶が「ガラパゴス化」していることに気づかず、女性たちが「日本の医師の中絶手術」に絶大なる信頼を寄せ続けてきたことには呆然とさせられます。中絶のタブー感とスティグマが、現実の中絶医療から女性たちの目を逸らせてきたのかもしれません。しかし、その間に日本の中絶医療はますますガラパゴス化の度合いを強めていったことは後編でお伝えしようと思います。
RHRという概念は1984年に開かれた第4回「女と健康会議」という民間の国際会議で提唱され、1994年の「人口と開発に関する国際会議(カイロ会議)」をはじめ、国連でも重要な概念として位置付けられてきました。にもかかわらず、日本の女性たちは女性の視点から中絶を肯定し、RHRを提唱するアクティビストたちでさえも、中絶医療について自力で状況を打開していこうとはせず、むしろ医師が振りまく中絶手術の「安全神話」を信奉してきたというのが、20世紀後半の日本の状況だったのです。
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望まない妊娠をするのはシスジェンダー女性(出生時に身体を女性と診断され、自分のことを女性だと認識している人のこと)に限らず、妊娠の可能性のあるトランスジェンダー男性(出生時に女性と診断されたが性別違和を覚え、それを解消するために男性になりたい/なろうとする/なった人のこと)やノンバイナリー(男性または女性というカテゴライズに違和を感じ、どちらでもないと感じる人)の人々、若い少女も含まれているが、ここでは話をシンプルにするためと、女性差別の文脈で論じるために「女性」に代表させる。