蟻塚さんは、足の痛みはこの経験から来ていると考えた。
「彼女は当時、学校を代表して旗をもつほどの軍国少女だった。『天皇陛下の赤子として、陛下のために死ぬのだ』と信じていた。その彼女が、こともあろうに日本軍の将校に『非国民』『叩き斬る』と言われた。大変なショックを受けたわけだね」
トラウマによる心の傷は、天災や事故よりも、世界観が破壊されたり、他人への信頼が崩れるような「人為的」な出来事による場合の方が深いのだという。父が土下座し、将校がそれを「非国民」と罵る光景に彼女は強烈な屈辱を感じた。その悔しさがトラウマ記憶として心に刻まれ、50代になってから職場のストレスや父の死をきっかけに噴き出したのである。
蟻塚さんは、痛みの原因がトラウマ反応であることを説明し、トラウマ治療に取り組んだ。その結果、彼女は8カ月ほどで足の痛みをほとんど覚えなくなった。
高齢者の約40%が「沖縄戦トラウマ」の恐れ
沖縄戦トラウマを抱えた高齢者は、沖縄全体でどれほど存在するのだろうか。蟻塚さんと専門家たちは12年度の1年間をかけて、400人を対象に調査を行った。すると、その39.3%がトラウマのハイリスク・グループに当たることが分かった。阪神淡路大震災の5年後の調査でもこのグループに相当する被災者の割合は22%だったから、この数字は大変な高さを示していることになるという。調査によって、沖縄の高齢者が抱える「沖縄戦トラウマ」の深刻さが浮き彫りになったのだ。「激戦があった伊江島では、夏祭りで花火を打ち上げるとき、お年寄りたちを家に帰すそうです。花火の光や音に、お年寄りは戦争を思い出して恐がってしまうから。だけど、それを精神医学的にトラウマの問題としてとらえることがこれまでなかったということです」
一方で、「2週間以内に友達と一緒にご飯を食べましたか」といった質問を通じて精神的な健康度をチェックするテストでは、非常に良好な数字が出たそうである。
「たぶん沖縄の文化の力だと思う。沖縄って、人と人の間のバリアが薄いのね。車に乗っていると、知らないおばあさんが『あんた、ちょっとそこまで乗せてくれんかね』とか言って乗り込んできたりする。沖縄民謡みたいな芸能や文化、地域の人の結びつき。そうしたものが、トラウマに抵抗する力を支えている」
とはいうものの、戦争のトラウマが沖縄社会に与えてきた影響は大きいと蟻塚さんは考えている。トラウマを抱える人の子どもがそれによる困難を被る「トラウマの世代間伝達」という問題もあるが、もっと「マクロな意味」、つまり個々人のトラウマの問題にとどまらず、社会全体が抱えたトラウマという意味でも言えることだという。
戦争終結18年後に少年非行が爆発
戦争終結から18年後の1963年、まだ米軍統治下にあった沖縄では少年非行が爆発的に急増し、「戦後最悪の少年非行の年」と呼ばれた。実に4865件に上る少年事件が発生し、そのうち強姦、強盗、殺人、放火などの凶悪事件が43%を占めた。「私はこれ、やっぱり沖縄戦と関係していると思う。終戦直後、焼け野原となった沖縄は深刻な貧困に陥りました。子どもたちは栄養失調によって発育不全となり、人身売買や米兵相手の売春が行われた。米兵たちによるレイプも多かった」
悲惨な状況の中でも、人々は自分だけが生き残ったことに罪の意識を感じていた。「生き残った罰」という言葉が流行した。蟻塚さんは自著『沖縄戦と心の傷』(大月書店、14年)でこの時期のことを「戦後沖縄社会の混沌のなかには、それほど生と死との入り乱れた悲しみが立ち込めていた」と形容している。
18年後の「戦後最悪の少年非行の年」は、そうした苦しみと悲しみの中で生まれ育った子どもたちの爆発だった。「その頃の沖縄タイムスなどを見ると、この前後の時期には、精神病も多発している」と蟻塚さんは話す。「どっちも戦争のトラウマの影響だと思う」
戦場となった悲惨な経験が沖縄社会に残した傷。戦後も沖縄は1972年まで米軍の占領下に置かれ、今も米軍基地が集中的に置かれている。花火の音にもあの戦争を思い出して身をすくめるお年寄りたちの頭上を、戦闘機が飛び続ける。米兵犯罪も跡を絶たない。
トラウマはどのように癒されるのか
蟻塚さんはしかし、戦争トラウマは沖縄だけの問題ではないだろうと考えている。「本土でもね、老人性うつ病だと思われているものが実は戦争体験によるトラウマかもしれないわけ。でも、たとえば東京大空襲のトラウマについて精神医学的に研究している人が誰もいない」
13年以降、蟻塚さんは福島県相馬市の診療所の院長を務めているが、診療に訪れる人の中には、津波と原発事故がもたらした被害と、故郷や仕事、生きがいの喪失によって、トラウマに苦しむ人々が多くいるという。
トラウマは、どのように治癒されるのだろうか。
「トラウマって、過去の記憶が現在に侵入してくるということなのね。だから、今、生きていることへの肯定感を強化することでそれを『過去』の棚に戻してやる。それが治療の目標です」
そのために大事なのは、まずは症状の合理的説明だという。たとえば自分の症状が沖縄戦のトラウマに由来することを理解するだけで、患者は少し楽になる。そしてつらい記憶を話せる相手がいること。話すことで記憶を相対化すると同時に、聞いてくれる人の存在によって、他人や世界への安心感、信頼感覚を取り戻すことができる。こうした道筋を通って、症状は改善していく。医師は、その過程をサポートするために、トラウマ刺激を抑える投薬や、同じ悩みをもつ人同士で話し合う「集団療法」などを行う。
「でも最後には本人の意志。生きることはつらいけど、勇気をもって生きてみようよ、という意志。傷つくことへの耐性、抵抗力をアップすることです」
生きる意思を高めていく手助けをするのが、トラウマ治療なのだろう。
そうした治療の現場で、蟻塚さんは戦争について考え続けている。
「戦後日本社会は、加害についても被害についても、あの戦争と向き合うことから逃げてきた。日本社会そのものが、実は戦争トラウマにとらわれている。だからこそ経済活動に猛進する道をひた走ってきたのではないか、と思います。でも、過去を直視して戦争の過ちを総括しないと、日本社会は戦争トラウマから解放されず、同じ過ちを繰り返してしまうかもしれません」
砲火がやんでも戦争は終わらない
戦争は、砲火が止むと同時に終わるものではない。過酷な経験の中で刻まれた心の傷は、その後も人を苦しめ続ける。もともと、トラウマやPTSDの研究がアメリカで進んだのは、戦場から帰ってきた兵士が心身を失調させることへの対策としてだった。今もアメリカでは、イラク帰還兵の自殺が問題になっている。国土が戦場となったイラクやアフガニスタン、シリアに住む人々の心の傷はさらに深いだろう。子どもたちは、大人になっても戦争トラウマに苦しめられるかもしれない。戦争はトラウマの苦しみを残す。今後は、そのことを抜きにして戦争は語れないだろう。私たちの国が、70年前の戦争トラウマを引きずりながら、新たな「帰還兵」を生み出す道に踏み込もうとしているのであれば、なおさらである。