奇妙な不眠と「沖縄戦トラウマ」の発見
「頑固な不眠を訴える老人がいる。そちらで診てもらえないだろうか」沖縄県那覇市の病院に精神科医として勤務する蟻塚さんの元に、医師のそんな言葉とともに内科から数人の患者が紹介されて来たのは、2010年12月のことだった。問診してみるとその症状は奇妙だった。精神科では普通、不眠はうつ病の症状と考える。ところが、彼らには全く抑うつ症状がない。それに、一晩に断続的に、頻繁に目が覚めるという症状(過覚醒型不眠)は、うつ病のそれ(中途覚醒型不眠)とは異なるものだ。蟻塚さんはそれが最近読んだ外国の論文に出てきた症状とよく似ていることに気づいた。第二次世界大戦中にナチスドイツがユダヤ人を虐殺したアウシュビッツ収容所から生還した人について、その精神状態を調査した論文である。蟻塚さんは、ある可能性に思い至った。「沖縄戦のとき、どちらにいらっしゃいましたか?」患者は沖縄戦の過酷な経験を生き延びた人たちだった。蟻塚さんが「沖縄戦トラウマ」の存在に気づいたきっかけである。
今回、「戦争と平和のリアル」でお話を伺ったのは、精神科医の蟻塚亮二さん。蟻塚さんは1947年に福井県に生まれ、青森県で育った。青森の病院で院長として勤務した後、2004年に沖縄の病院に赴任。10年近くの沖縄生活を経て、現在は東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の被災地である福島県相馬市の診療所に院長として勤めている。病院の院長を長く務めているというのに、しかつめらしく権威的なところが全く感じられない人である。深刻な話のときも深刻な顔にならない。患者を不安にさせない精神科医の条件なのかもしれない。
住民の4人に1人が死亡した「沖縄戦」
2004年に沖縄に移住した蟻塚さんは、沖縄戦に関する書物をあさり、戦跡をめぐったり、講演に足を運んだりしていた。沖縄県は日本国内で唯一、地上戦が行われた地域だ。第二次世界大戦末期の1945年4月、米軍は沖縄本島に上陸し、猛烈な艦砲射撃と爆撃を沖縄全土に浴びせた。打ち込まれた砲弾、爆弾は約4万発。総量は約20万トンに上ると推測されており、その凄まじさを沖縄では「鉄の暴風」と呼ぶ。狭い島内各地での戦闘によって住民の被害は拡大し、死者の数は軍人よりも住民の方が多くなった。住民を襲ったのは米軍の砲弾だけではない。日本軍もまた、住民をスパイとして処刑したり、洞窟(ガマ)に避難している住民を艦砲射撃の中に追い出したりした。沖縄の人々は、米軍と日本軍の双方を恐れなければならなかった。亡くなった沖縄県民は、終戦前後の餓死や病死を含めると約15万人に上る。これは当時の県民の4人に1人に当たる数字だ。死亡率は、激戦地となった本島南部ではもっと跳ね上がる。浦添市44.6%、摩文仁村47.7%、西原町46.9%……。
最も凄惨な出来事は「集団自決」だろう。追い詰められた住民たちが集団で自ら死を選ぶことが相次いだ。捕虜になるなと教えられていた上、「米軍は投降した男を殺し、女をレイプする」と信じ込まされていた住民たちは、爆撃を逃れた洞窟の中で、家族が互いに首を絞めたり、鎌などで頭を割ったりして集団で自殺したのである。日本軍があらかじめ配っていた手榴弾で爆死した人々もいた。
「奇妙な不眠」の患者に出会う4カ月前の2010年8月、蟻塚さんは集団自決の生存者の話を聞く機会があった。
「ショックを受けた。そして、これは精神医学的な現象でもあると直感した。 洞窟の暗がりの中で、人々の感覚は遮断されていた。米軍に見つかって殺されるかもしれない。だけど投降すれば今度は日本軍に殺されるかもしれない。生きるのも恐怖、死ぬのも恐怖。選択肢のない絶望的な状況に追い込まれたわけです」
精神医学は戦争経験をどう捉えるべきか――。蟻塚さんは、関連する論文を猛烈な勢いで集め始める。日本の研究は非常に少なかったので、外国の論文を読み漁った。先述の「奇妙な不眠」の患者と出会ったのは、そんな時期だった。
悲惨な沖縄戦の経験が、沖縄の高齢者の心に刻み込まれ、何かのきっかけで様々な心身の不調を引き起こす。これが、蟻塚さんが考える「沖縄戦トラウマ」である。
トラウマとは何か
そもそも「トラウマ」とは何だろうか。強烈な出来事によって心が深いダメージを受け、その後もその記憶がもたらす恐怖や不安感が離れない状態を指す精神医学の言葉らしいが、もう一つピンと来ない。「一言で言うと、太刀打ちできないような強烈なストレスを経験すると、それがトラウマとなる。たとえば交差点で交通事故にあった人は、頭では大丈夫と分かっていても、交差点を曲がる時に心臓が勝手にドキドキしてしまう。それがトラウマ」
だけど普通は、嫌なことがあっても、しばらくすると忘れていくのではないだろうか。なぜそれがいつまでも続いてしまうのだろう。蟻塚さんはこう説明する。
「たとえばバスケットボールの表面を棒で押すと、表面がへこむでしょ。でも棒を離すと元に戻る。だけど、あまりにも強い力で棒が押し付けられると、棒を離してもへこみが残ったままになる。無意識の中に刻まれてしまって、修復できなくなる」
強烈なストレスを経験すると、それがいつまでも現在進行形の熱さをもつ「トラウマ記憶」として心を苦しめる。それが心身の不調として現れるのが「トラウマ反応」であり、その中の典型的なものが「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」と呼ばれる。
トラウマがもたらす心身の不調には、たとえば悪夢や不眠、いらいら、つらい記憶が突然よみがえる「フラッシュバック」、急に動悸がして不安になるパニック障害、突然意識が飛ぶ「解離」、震えやけいれん、原因不明の体の痛み、非定型な抑うつ症状、幻覚幻聴、人格の変化……などがある。
お盆が近づくと死体の匂いがする
「沖縄戦トラウマ」の存在に気がついた蟻塚さんは、その視点から高齢の患者たちについて調べ直してみた。すると、症状の原因が沖縄戦に関連したトラウマであると思われる人が続々と見つかった。車の運転中に自分がどこにいるか分からなくなったという男性は、目の前で内臓がはみ出して亡くなった妹の姿や住民を斬殺する日本兵の姿など、沖縄戦時の記憶のフラッシュバックに苦しめられていた。
親族とのトラブルをきっかけに不眠や「死にたい」という激しい感情が噴出するようになった男性は、7歳のときに沖縄戦の中で家族5人を目の前で亡くしていた。毎朝、仏壇に手を合わせると体が震える。
「本土」で働いていた息子が亡くなったことをきっかけに足に力が入らなくなり、車いす生活になった女性は、戦争中にかいだ死体の匂いがよみがえることに苦しめられていた(彼女はその後、蟻塚さんの治療によって10年ぶりに歩けるようになった。トラウマ治療については後述する)。
「うつ病だと思って診察してきた人が、よくよく話を聞いてみると『お盆が近づくと死体の匂いがして苦しい』『大相撲中継で日の丸が揚げられるのを見ると体が震える』『クリスマスといった、アメリカを連想させる言葉を聞くと気持ちがざわざわする』と言うんですね」
沖縄戦の中で深刻な経験をし、その記憶が人生の転機となる出来事をきっかけに心身の不調を引き起こす。戦後の早い時期からそれに苦しめられている人もいるし、年をとってから出てくる人もいる。
激痛の原因は「非国民」と呼ばれた屈辱
蟻塚さんは、一人の高齢患者の話をしてくれた。彼女は学校の先生だった。55歳のとき、中間管理職的なポジションについたが、まじめで正義を貫こうとするタイプの彼女は、校長と若い先生たちの間で板挟みになり苦しんだ。同じころ、父を亡くした。そしてある日、足の裏が焼かれるように熱くなり、激痛に襲われる。以来20年以上、足の痛みに苦しめられてきた。あちこちの医者にかかるが原因が分からない。心療内科に通い始めたが医者がいなくなったために、たまたま転院して来たのが、蟻塚さんの勤務する病院であった。いろいろな話を聞いた上で、蟻塚さんは「これは戦争のせいかもしれませんよ」と彼女に伝えた。彼女は戦争中、家族とともに戦場を逃げ回った経験を持っている。そして、逃げ込んだ洞窟の中で決定的な出来事に遭遇する。数人の日本軍兵士が洞窟に現れ、上官が「この壕は我々が使うからお前たちは出て行け」と命令したのだ。だが外は艦砲射撃が続き、爆弾が破裂している。彼女の父は土下座して頭を地面にこすりつけ、「どうか夕方まで置いてください」と頼み込んだ。すると上官は、日本刀をガチャガチャと鳴らしながら、こう言い放ったのである。「恐れ多くも天皇陛下に逆らうのか。この非国民め、叩き斬ってやろうか」。