けれども、特定の政治的対象(国の最高指導者、正しいとされる考え方)の価値を「際限なく高める」心理に歯止めがかからなくなると、それ以外のもの、例えば国民の自由や権利、生活、そして命の価値は、相対的に「際限なく軽くなる」ことになります。
国の頂点に戴く「絶対的に神聖な存在」や、その存在と国民の関係を絶対的な理想と見なす「国体」の思想が、当時の日本国民にとって「疑問を抱いてはならない絶対的真理」となった時、戦争へと向かう道の手前にあったはずの心理的な「敷居」は、実質的に取り払われました。
「お国のために散華する」
太平洋戦争の最中、日本軍が「特攻」や「玉砕」という、現代の価値観で見ると非人道的な戦法を多用したことは、よく知られています。日本の一部では、今なおこれらの戦法を「軍人として立派な最期だった」と肯定する人もいますが、特攻も玉砕も、兵士の生還を完全に度外視したという意味で、同時代の他国の軍隊とも、明治および大正時代の日本軍とも、大きく異なる戦法でした。
ドイツ空軍は、第二次世界大戦の末期(1945年4月)にただ一度だけ、戦闘機を敵の爆撃機に体当たりさせる戦法を試みましたが、想定よりはるかに小さい効果しかないことがわかると、こうした戦法をすぐに停止しました。
言い換えれば、ドイツ軍は「軍事的な合理性」で体当たりという戦法の是非を評価しましたが、日本軍にはそうした合理的な評価基準はありませんでした。むしろ、戦いの中で兵士が「お国のために散華(死ぬことを言い換えた言葉)する」ことが目的化したような精神的な価値判断に基づいて、特攻が繰り返されました。
明治・大正の日本軍も、他国の軍隊と同様、自国の軍人の命を軽視せず、最初から生還の可能性がゼロであるような作戦は行いませんでした。日露戦争の旅順攻撃では、大勢の日本兵が突撃の過程で戦死しましたが、正面突撃と並行して近代的な攻城戦の戦術(坑道攻撃)も用いられており、自軍の損害が増大することを司令部は苦慮していました。
1945年の敗戦までの昭和前期も、明治および大正時代も、憲法は同じ「大日本帝国憲法」であり、憲法の内容の違いが、こうした人命の価値判断における差異の原因ではありませんでした。では、何がどう違っていたのか。
「お国のため」が国を滅ぼす
先に述べたように、1930年代の「国体明徴運動」で天皇や「国体」が絶対不可侵の存在として神聖化されると、それを守るために「軍人(および国民)が死ぬ」ことは、否定的な結果ではなく、むしろ「立派な行い」として肯定されます。そして、戦死した軍人を崇高な「神」として祀(まつ)る靖国神社の存在は、国に殉じるという行為そのものを顕彰する役割を果たし、他国の軍隊のように「大勢の自国軍人を死なせた指揮官が、無能力ゆえに罷免される」こともほとんどありませんでした。玉砕の場合、太平洋戦争の開戦前(1941年1月)に陸軍の訓示として下達された『戦陣訓』の存在が大きな意味を持っていました。その内容は、当時の「国体」思想の延長にあるもので、「生きて捕虜となることは屈辱であり、死ねば罪過の汚名を免れる」から、戦闘中に絶望的な状況に陥っても、国の名誉を守るために降伏するなと命じていました。
これらは「日本軍人」だけに限定した話ではなく、当時の一般国民も同様の価値判断を共有していました。「お国のために命を捧げる」という考え方は、当時の「国体」思想に沿ったものであり、本当にそれらの行動が日本という国のためになっているのか、むしろ逆に日本という国にダメージを与える結果になってはいないか、などの冷静な客観的視点は、当時の日本では書くことも口にすることも許されませんでした。
独立した心で考え続けること
国のため、という言葉は、聞く者の心に「重し」のようにのしかかる言葉です。心の弱い人は、その重さを支えきれず、心をそこに押さえつけられてしまいます。けれども、後になって歴史を振り返れば、ある時代に国の政治指導者が「これをすることが国のためになるのだ」と国民に教えたことが、実際にはその逆、つまり国を滅ぼす道であった場合も少なくありません。
そんな過去を再び繰り返さないためには、一人ひとりの国民が独立した「心」を強く持ちながら、政治指導者やその支持者が好んで口にする「国」とは何を指しているのか、本当に自分の国にとってプラスになることは何なのかを、個人として常に考え続ける必要があるように思います。