強制的に兵隊にされたとしても、ひどいことをした人たちだと考えている」
韓国でも「少女像」への嫌がらせが
「嘘つき」「お金が目当て」「韓国人の業者がやったこと」「公娼だった」……。当事者が「お金が欲しいのではない」と言っているし、軍の関与を明らかにする公文書が存在するにもかかわらず、慰安婦被害者を否定し、罵倒する声は日本国内で渦巻いている。
だがオクソンさんによれば、韓国でも平和の少女像に唾をかけたり、罵る発言をした若者が、刑事告訴されかける事件が起きたという。のちに加害者たちは謝罪をしたものの、オクソンさんは「日本人よりもそういうことをする韓国人の方が悪い」と感じているそうだ。
この講演会の直後、私はナヌムの家を3年以上ぶりに訪れた。今も存命の被害女性のうち、6人がここで暮らしている。
住居がある生活館に向かうと、レクリエーションルームを兼ねたリビングで、オクソンさんが10人の男子学生を前に話していた。1週間前より、声にさらに勢いがあるように思えた。ソウル市内から来た高校生だという彼らは、身を乗り出して聞き入っている。そしてオクソンさんが中国から帰国する以前に両親が亡くなっていたことを聞くと、ある一人が「また両親に会えたら、何と言いたいですか?」と質問をした。……知らないということと若さとは、なんと残酷なものなのか。つい質問者の顔を凝視してしまった。
性暴力の被害者が自身の被害を「恥」と受け止めてしまうことは、戦時性暴力に限らない。現代でも性暴力に遭った女性の多くが、その「恥」の意識から家族やパートナーとのコミュニケーションに、困難を抱えている。ましてや70年以上前に被害に遭った女性の「恥」の重さは、現代以上であることは容易に想像がつく。
またなぜ韓国へ帰れなかったのかは、貧困家庭に生まれて14歳から働いていたことで文字を学べず、生活のために現地で結婚してしまったことも大きい。字が書けないから両親に手紙を書くことができず、消息を伝えられなかった。だから2000年に帰国した際には、すでに自身の死亡届が出されていたそうだ。
日本人慰安婦だった城田すず子さんが自叙伝の『マリヤの賛歌』(かにた出版部)に、食料欲しさに現地で結婚した日本人慰安婦が、「こんなになってしまって日本に帰るのは嫌だから、ここで放っておいてください」と語ったと記したように、かつての姿ではなくなってしまった自分では、元の場所に無邪気に戻ることには困難がつきまとう。高校生ではそれを理解するには、若すぎたのかもしれない。イ・オクソンさんはその質問にはハッキリと答えず、次の質問に話題は移っていった。
「被害者」ではなく一人ひとりに名前がある
1997年時点では、日本の中学校の歴史教科書では7社あるうちの全てが、慰安婦被害者について触れていた。しかし2012年以降の歴史教科書からは、慰安婦問題についての記述があるのは1社のみとなっている。日本ではそもそも、この問題について学ぶこと自体が難しい。だが韓国の若者も常に歴史に関心を持っているかと言ったら、おそらく違うだろう。だから少女像に唾をかける者も現れるが、一方でこうして当事者の話を聞き、無知と向き合う者もいる。
知ることと考えることへのアクセスポイントが、社会の中にいくつも存在している。それが、韓国社会が民主化から約30年という短期間でドラスティックに変化した理由の一つなのではないか。もちろん韓国社会の全てが素晴らしいわけでは決してないし、清算しきれていない積弊や新たな問題が山積みなのは、私ですらよくわかる。それでも知ろうとすれば、機会を得ることができる社会であることは認めたい。
生活館を後にした私は、17年にオープンした第二歴史館に向かった。館内には慰安婦被害者だったことを名乗った女性たちのポートレートや生前使っていたものが飾られ、一人ひとりのプロフィールが記されていた。箸やスプーンなどの生活用品から、楽器や絵の具などそれぞれの個性がわかるものが置かれている。
映画『まわり道』の中にも、ナヌムの家で撮影されたシーンがいくつも登場する。20年にわたる記録の中で歌ったり踊ったりする彼女たちは、全員違う姿かたちを持っている。
「私たちが恥ずかしいことなんて一つも無い」
映画の中にそんなセリフがあった。そしてさらに彼女たちは言う。
「私たちには一人ひとりに名前がある」と。
再び生活館を訪れると、オクソンさんは違う学生たちに向けて話をしていた。かつて「トミコ」と呼ばれ、名前を奪われた彼女は、イ・オクソンに戻り、被害を語ることで自分の人生を取り戻すことができた。学生たちに話しかける表情からは、そんな思いが伝わってきた。
冒頭の『BIG ISSUE』のページをめくると、ポートレートとともに、彼女の字で「私の名前はイ・オクソンです」と書かれていた。教科書から「慰安婦」の文字が消え胡乱(うろん)な言説ばかりが飛び交っている今だからこそ、慰安婦被害者は「被害者」という記号ではなく、かけがえのないたった一人の人間であると心に刻む。「被害者の方と話がしたい」とかつて言っていた私自身も、そこから始めたいと思う。