「家に帰りなさい」
大人は口を揃えてそう言った。毎日、家に帰りたくなくて、深夜徘徊している私を見た大人は、私が家で何をされているかを知ってもなお、そう言うのだ。当時は「優しい」と思っていた。夜中は外にいると危ないからそう言ってくれてるんだ。そう思っていた。
今思うと無責任な言葉だ。家に帰って私が何をされるかを想像したら、そんな言葉は出てこないはず。「家に帰りなさい」と言葉を吐いて、自分は暖かいお家に帰り、温かいご飯を食べて、暖かい布団で寝る大人たち。その間も私は街をさまよった。寒い冬もずっと路上でさまよっていた。
3歳の頃、お寺のトイレに連れ込まれ、レイプされた。当時、行為の意味も、それが性被害であるかも分からなかった。被害を認識したのは高校生になってからだった。私のトラウマだらけの人生はそこから始まった。
私は小学生の頃から鬱(うつ)っぽい気質があった。自分にも周りにも厳しく真面目で、毎日朝3時に起きて勉強していた。卒業式が近くなると自傷行為を始めた。その行為が何なのかも分からず、周りに助けを求めることもできなかった。中学受験に何とか受かり、私立中学に進学した。
12歳、中学校に入学してすぐに精神科に通い始めた。ヤクザに追われているという妄想に取り憑かれ、統合失調症と診断された。家中の鍵を閉めたか何回も確認し、自分の部屋にはいつヤクザが来てもいいようにと、包丁を置いていた。寝ている間に襲われるのが怖くて寝ることもできなかった。
13歳、兄からの暴力が酷くなった。交番に助けを求めたが、親に電話され、家に帰された。親は兄の暴力を「お前も悪い」と言って止めてくれなかった。殴られる度に泣き叫び、助けを求める私を放置した。警察も親も助けてくれない状態で、私はネットの男性配信者に助けを求めた。
「住所教えてくれたら、兄の暴力を止めに行く」と言われて私は住所を教えた。すると、その配信者は配信しながら私の家に来て、家の中に入ってきた。今思えば怖いなと感じる。けれど、当時は助けを求められる人が他にいなかった。この人が最後の砦、藁(わら)にもすがる思いだった。
その後すぐ、不登校で家でも虐待されていた私はゲームにのめり込んだ。虐待の影響で複雑性PTSDと診断され、フラッシュバックが頻回だった私にとって、ゲームの時間はフラッシュバックが治まる唯一の時だった。月3000円のお小遣いで、家を出るお金もなかった私の唯一の逃げ場所だった。そこで出会った男性に、虐待の相談に乗ってもらっていた。
「家が辛かったら、俺は犯罪者になってもいいから、家に来ていいよ」
ずっとそう言われていて、優しい人なんだと思った。1年ほど交流が続いた時、男性から絶頂するまで自慰行為するよう指示された。乳首を開発して俺に報告しろとも指示された。信頼していた私は指示に従った。高校生になってからグルーミングという言葉を知り、私は男性に手なずけられ、性被害にあっていたと自覚した。自ら望んで性的行為をしたと思い込んでいたが、思い込まされていたと気づいた。
中学校は家の状況に気づいてくれなかった。不登校の間、私に連絡が来た覚えもなければ、家族に連絡が来ていたのかも分からない。たまにある話し合いで自主退学を勧められていた。そして私は私立中学を2年生の12月に退学した。家のことを知らない学校や、クラスメイトにとって私は、入学してから退学するまでずっと浮いてる不登校の生徒であった。
15歳、家出をして補導された。助けてくれない警察と家族に迷惑をかけたくて家出した。転入した地元中学校には私は存在しないものとして扱ってもらい、通ってもいなかったので、補導されても何も困ることはなかった。今から思うと、私は当時から大人にすれば問題児と言われるような子どもだったのかもしれない。
そして、私はそのまま中学校を卒業し、通信制高校に進学した。高校最初の夏休み、虐待のフラッシュバックでパニックになった私は、駅のトイレで薬を90錠飲み干した。その時の私は、この薬を1箱飲めば、虐待されている時の自分が報われると信じてやまなかった。フラフラになりながら家に帰り、私は意識を失った。しばらく経ってとてつもない吐き気で目が覚めた私はトイレに駆け込んだ。
トイレで何回も何回も吐きながら、親に「病院に連れて行ってください」と懇願した。すると親は「お前がそういうことするとみんなが嫌な顔するんだよ」と言い、朝まで「病院に連れて行ってください」と懇願し続ける私を放置した。
16歳、習い事で出会い、虐待の相談に乗ってくれて、すごく信頼していた大人からの大きな裏切りを経験した。激しい恐怖から言われた言葉は一生忘れないだろう。
「看護師になりたいならまず学校に行けば?」
「本当に家を出たいと思うなら市役所に行っている」
「家を追い出されるまで家に帰ればいい」
「殺されるまで殴られてないでしょ」
「食べられるご飯と寝る場所があるだけ恵まれてる」
「死なないので大丈夫、飯食って寝てください」
相談の中でイライラしたその大人は、突然こんなにも暴力的な言葉をぶつけてきた。 そして、泣きそうな私にその大人は続けてこう言い放った。
「俺はそういうところで働いてたから分かるんだ」
私はそれから口を閉ざした。相談すること、虐待について話すことは二次加害され、トラウマになるような言葉を言われることだと確信した。助けてほしい気持ちを押し殺し、外では笑顔で明るく振舞った。家に帰ったら虐待されているなんて誰も気づかないであろう笑顔で。
これまで虐待という言葉を使ったが、実際に私が虐待されていたんだと自覚したのはColabo(コラボ)に保護された後だった。実家にいた頃の私は、虐待を肌で感じ取れれば周りに 「虐待されています」と言って助けてもらえると思い、親に「虐待してください。殴ってください」と懇願した。
16歳の冬、ついに家を追い出された。家中のお金を盗んで、お年玉を握りしめて、エレキギターを背負って家を出た。外で生きていくためにはお金が必要だった。お金を盗まなければ、私は外で体を売るしかなかった。知らない男性の家に泊まるしかなかった。家を追い出された後、私はColaboに保護された。
「今から児童相談所に虐待通告をします」
Colaboのスタッフにそう言われた時、「虐待されてないです」と言おうとした。家を追い出されて外での生活を強いられてもなお、私は虐待だと思っていなかった。路上をさまようこと、無理矢理に性的行為をされること、包丁を向けられること、「自殺すれば?」と言われること、ご飯を貰えないこと、病院に連れて行ってもらえないこと、窓ガラスが割れて血まみれになること、お風呂に入るのに許可がいること、全てが日常であった私にはこれらを「虐待」と気づくことは不可能だった。
シェルターに入った私に弁護士さんがついた。弁護士さんは今までの虐待の話を全て聞いてくれた。そして、弁護士さんは言った。
「あなたが今、家に帰ったら18まで命がもつか分からない」
私の苦しみを分かってもらえて嬉しい気持ち、そんなに酷い状況だったのかという戸惑い、複雑な気持ちだった。
私はずっと探していた。話を聞いてくれるだけではなく、この状況を一緒に変えてくれる大人を探していたのだ。私にとって、その大人の存在がColaboであった。しかし、その役割は身近な大人もするべきものではないだろうか。虐待通告は国民の義務と知っている大人はどれだけいるのだろうか。虐待され、家に帰りたくなくて、路上でさまよっている子どもにかけるべき言葉は果たして「家に帰りなさい」なのだろうか。