生徒たちを見守っていた女性教員にも物品を勧めると、「避難所では生理用品を男性が管理しているためもらいづらかったり、女性向けの物品が全然手元に届かなかったりする」とか「食べるものが回ってこない」という状況を教えてくれた。とくに「震災発生時に履いていた靴1足しかない」という人が多く、用意していた靴はあっという間になくなってしまい、現地で買い足しても足りないほどだった。先生たちの間でも「バーゲンみたいで楽しい! こんな時間久しぶり」と話がはずんでいたり、「私たちにまで目を向けてくれるなんて……今日のことは一生忘れません!」とまで言う人もいて、子どもたちのみならず大人もみな張り詰めた状態で頑張っておられることを感じた。
私たちは活動の中で、いつも「選べる」ことを大切にしている。生徒たちの反応を見た先生たちが「選べることが嬉しかったんだよね」と言っていたが、自分で選べることや、女性だけでわいわいやれる時間、自分のために用意されたものがあることの大切さは、大人たちも同じであることを実感した。
女性教員向けの時間が終わった後は、男性教員たちに「ご自身や、ご家族にどうぞ」と物品を選んでもらった。先生だって被災され大変な中で、生徒たちを支えている。生徒の前では気丈に振る舞っていても、さすがに疲れ切った様子だった。家を失い避難所や車中泊で生活をしながら通勤していたり、食事も十分にとれておらず、持って行ったお菓子を「今日の夜ご飯にする」と話す先生もいた。私たちが訪問中に出会った先生たちは、みな一様に食事に困っている様子で、パンやお菓子がもらわれていった。それほど被災地の食事事情には、厳しいものがあると感じた。
行政が避難所を縮小する方針を示したことから支援物資の配給が減り、炊き出しは避難所にいる人だけに提供され、避難所以外で寝泊まりしている人の中にはカップ麺生活の人もいるという。町中は倒壊した建物がそのままになっており、水も食料も不足している中で避難所を閉鎖されても困るという声は多く、行政の対応が被災者の方々に追い打ちをかけているように私には思えた。
避難所で若い女性たちにふりかかる困難
私たちは各地域の避難所も一つひとつ訪ね、中高生世代の少女たちを探して回った。避難所にいる多くの女性たちは着替え用の衣類も持たず、炊き出しがない日は女性たちが調理をしなければならなかったり、井戸水で洗濯したりして手が荒れている人が多かった。被災して失業した人も多く先が見えない中、私たちが出会った20代の女性たちも仕事を失い、1日中ずっと避難所にいる生活。「避難所では女性の立場が弱い」「生理の時は特に大変」「多い日の夜用の生理用品がない」などと話していた。
「避難所には男女問わず着られるような衣類は届くけど、女性がちょっと買い物などに出かけられるような服や色味のいいものがない」「着られる服、着たいと思える服がない」という声が、どの避難所でもあらゆる世代の女性たちから聞かれた。「届けられた女性用の衣類は、中古で着られないものばかり」と話す人もいた。
私たちが中高生向けに持って行った衣類を欲しがる成人女性も多かった。大人にはサイズが小さいものばかりだと伝えても、「欲しい欲しい」「私も着られる」とたくさんの人たちに囲まれてしまうことも度々で、とにかく切羽詰まった状況にあり、大人向けの衣類を途中で買い足したほどだ。私たちは「中高生の女の子向けの活動です~」と言いながら若いお母さんや女性たちにもうまく声をかけ、普段の環境から離れて自分のものを選んでもらえるようにした。
ある避難所では、大手企業から届いた衣料しかなく「老若男女みなお揃いの服を着ている」という話を聞いた。話をしてくれた人に着られそうな衣類を勧めると、「自分だけもらってしまうと周りの目があるので……」と固辞されたが、「避難所に30代の女性が1人いるので、彼女には渡してあげたい」と言って女性用の衣類をこっそり受け取っていった。小学生の子どもたちも、服や靴、ヘアゴムをもらっていった。子どもがお菓子を選ぶ様子を見て、「お菓子も食べたいよね。遊びたいよね。心の癒しになるね」「選べるのが嬉しいよね」と話す母親たち。彼女たちも、「下着をもらえただけでありがたい」などと言いながら衣類をもらっていった。このように最低限のものも持っていない人がたくさいる状況を見て、女性に必要なものはその「最低限」にさえ入っていないのではないかと感じた。
「お風呂に入れていますか?」と聞いて「入れています」と最初は答える人も、よくよく聞くと「自衛隊のお風呂は1人15分と決まっているので、子どもを連れてパパッと体を洗い、パッとお湯に浸かって出たらあっという間だし、顔を洗ったり毛を剃れる環境や時間はない」という。在宅避難している人や、お風呂のない避難所にいる人も自衛隊が設置した移動式風呂(通称「自衛隊風呂」)に入浴に来ているが、髪を乾かせる設備はないため髪の毛を濡らしたまま極寒の中を歩いて帰っていく。Colaboが持って行ったドライヤーは、電気が使える環境にある人たちに人気で、あっという間になくなってしまった。
海外からの移住や国際結婚によって日本で暮らし始めたという女性がいる避難所もあり、そうしたマイノリティの方々は圧倒的にものが足りていない様子だった。差別から逃れるために避難所には入れないという人もいる。もともと困窮していた人は、さらに厳しい状況になっていた。技能実習生と思われる外国人男性たちが、避難所での生活を避けて支援物資を受け取りにきていたり、遠距離を自転車で行き来していたりする姿も見た。
児童養護施設で暮らす子どもたちは、住んでいた分園の天井が落ちたため中に入ることができず、衣類も取りに行けないとのことだった。職員たちも被災して大変な中で、避難所から通勤して子どもたちを世話をしていた。
町中の給水所に来ていたおじいさんと小学生の女の子に声をかけたところ、津波で家が流され、親戚の家に身を寄せて気を遣っている様子だった。80歳を超えたおじいさんは「給水くらいは手伝わないと」と言い、私たちが差し出したスナック菓子を「つまみにする」ともらっていった。みんなお腹を空かせていて、それは3月半ばの2度目の訪問時にも改善されていないようだった。
Colaboの能登での活動に向けて、私が石川県や県教育委員会などと事前にやりとりをしたところ、「高校生に必要な物は足りている」「物資は集積所に置いて行ってくれたらこちらで配布する」などと言われた。しかしそれでは支援からこぼれ落ちる少女たちが必ずいること、そうした子たちに差し伸べられる手がないのを知っていたから私たちは個別に関係性を作り、自主的に活動することにしたが、現地は思った以上に深刻な状況にある。
私たちは普段から、自分から「助けて」と言わない少女たちに出会い、つながる活動をしているが、被災地でも「欲しいものはありますか?」「困っていませんか?」などと聞いても簡単にはニーズは聞き取れない。彼女らが必要と思うだろうものや具体的な選択肢を用意し、提示しながら声をかけて、顔が見える関係性を作ることで選んでもらえたり、「必要だった」「欲しかったけど言えなかった」と話してくれたりするようになる。
東日本大震災の時は、被災地にたくさんのボランティアがいたが、能登では市民ボランティアにほとんど出会うことがなく「東京から支援に来た」と言うと驚かれた。自治体の職員は全国から応援に入っていたが、それもいつまで続くかわからないという。とくに復旧作業が進まない奥能登の人々は、見捨てられ感を募らせている。2月の訪問時には、元気に明るく振る舞っていないといられない、少し優しくされたら崩れてしまいそうでもなんとか耐えているという女性たちも多かったが、3月には彼女たちも疲れ切った様子で冗談を言い合う姿はなかった。