遊女や買春客を描いた他の展示にも、「人物の表情は一貫して和(やわ)らかなところがあり一人一人のしぐさや表情にも味わいがあります」「あたかも芝居のワンシーンを観るように床を離れようとする客と、それを引き止めようとする遊女の一瞬の動きを捉えています」「画家は絡まる手と手の表現によって、離したい客と離すまいとする遊女の心理のあやを巧みに暗示し」「遊女の髪の乱れや男性の額にはほつれ毛など、細やかな描写によって男女の情を表現しています」「記憶を頼りに描いたにしては臨場感に満ちています」「髪の生え際や少し乱れた様子なども繊細に書き込まれ、何気ない部分に遊女の日常を知り尽くした歌麿の視点を見ることができる」などと説明が並び、具合が悪くなりそうだった。遊女たちが自分の声を殺して男や業者の理想のままに存在することを強要され、そして、それが今も続いていることを想った。
会場を進めば進むほど、遊女たちが人間ではなく人形のように扱われていることを実感した。いずれ遊女となるべく育てられている少女たちも一緒に、店ごとに揃いの着物を着て正月のあいさつ回りをする様子も、現代のコンカフェや風俗店で用意される制服と重なり、ひたすら「同じだ」「今も同じだ」と確認する時間となった。でもそれは10代の頃から性搾取の中にいて、今もそこにいる少女たちとつながり、性売買の現実を見つめ続けてきた私だから感じ取れることであって、多くの人にとってはそうではないのだろう。「大吉原展」は「買われる」ことのない人だけが安心して楽しめる展覧会だと思った。
性売買という搾取や暴力を美化しないために
会場の入り口には主催者あいさつ文と別に、学術顧問を務めた江戸文化研究者、法政大学名誉教授の田中優子氏の「ごあいさつ」が個人名で掲げられていた。田中氏は昨今の私たちへの深刻な活動妨害の中でColabo(コラボ)の役員にもなってくださった、買春のない社会をつくるために共に行動する仲間だ。
田中氏の文章には〈どれほど美しいものであったとしても、その根幹には、女性の性の売買〉があり、〈家族のための前借金と、男性たちに身を売ることによる返済の日々を、前提に〉していたこと、〈女性の人権侵害の根底には、国家に組み込まれた「家族制度」の固定観念が潜んでいる〉ことが指摘されていた。また〈本展覧会の実施に関わる私たちは、女性への人権侵害を一切、許しません。人権侵害とは、一人の人間の全体から一部を切り離し、消費あるいは利用することです。性の利用や売買はその最たるものです〉〈この展覧会を私たちは、吉原に生き、亡くなっていった多くの女性たちの日々に思いを馳せることによって、現代にも存在する女性の人権侵害をどうすればなくしていけるのか、熟考する機会にしたい〉と書かれていた。
私は、こうした文章を田中氏の個人名でしか発表しなかったことも、この展覧会の限界なのだろうと思った。この2つのあいさつ文は、前期は来場者の誰もが一番最初に目にする会場入口に展示されていたが、展示の入れ替えがなされた後期では会場外、受付奥の目立たないスペースに移動されていた。展示のほうも残念ながら、「吉原に生き、亡くなっていった多くの女性たちの日々に思いを馳せることによって、現代にも存在する女性の人権侵害をどうすればなくしていけるのか、熟考する機会」とはなっていなかった。吉原遊郭における女性たちへの暴力や受けてきた差別、女性たちを抜け出せなくする手口や構造、社会の認識、死んでいったたくさんの女性たちのこと、今も続く吉原を始めとする遊郭がつくった「文化」の影響を大きく受ける性売買の実態は扱われていなかった。
それらを直視するような展示にしなければ、今の社会ではこの展覧会を通して性売買を美化する人が増えるだろう。「美術展なのだから仕方ない」という人もいるかもしれないが、それを理由に暴力や搾取を美化したり、現実の女性差別や性搾取に与える影響を無視してはいけない。
記者会見で配られた田中氏の文章には〈現在に至るまで、日本社会に売買春が存在する理由の一つは、吉原を始めとする各地の遊廓が長い間存在し続け、それが「女性」についての固定観念を作ったからだと認識している〉と書かれていた。しかし「文化」として捉えるのであれば、それがどのように現在の社会にも影響しているのかを見つめる責任もある。むしろ「文化」となったその影響により、性搾取が殺人のように「あってはならないこと」という共通認識がないこの社会では、この展示を観た人が解説なしにそこまで考えることは難しいだろう。この文章には〈この展覧会では、吉原の町を満たす人々の声や音曲や唄が聞こえてきそうな賑わいを、絵から感じ取って欲しい〉ともあったが、実際感じ取れるのは美しい文化としての吉原であり、性搾取の実態ではなかった。
そこで「売春」が行われていたから、この展覧会が批判されているわけではない。女性たちが「買われていた」事実から目をそらす効果を持っていたから批判されたのだ。「そこで売春が行われていたからといって、その一方で栄えた文化を隠してはならない」というような言い方で、性売買の中にいる女性たちの痛みや実際の生活を覆い隠してしまうことは、性搾取の構造を強化することにつながる。
日本社会では「文化」となって今も続く性売買
私はこれまで日本の「文化」や「芸術」と呼ばれるものに、触れる機会のない生活を送ってきた。吉原でもそれらは一部の上流階級の人たちのためのものであり、それを下層の人々が劣悪な環境で下支えしてきた。今の日本でも「文化」や「芸術」は、一部の階層の人たちのためのものになっている。
今、放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』で、(女給が性接待する)カフェで働く「よね」という女学生が大学の同級生に、「私にはおにぎりを人に施す余裕も、働かなくても留学させてくれる家族もいない。昼休みに泳いだり歌ったりもしない。一日も大学も仕事も休まず必死に食らいついてる。だから、余裕があって恵まれたやつらに腹が立つんだよ!」と訴えたシーンには、多くの性売買女性が共感しただろう。吉原を通して栄えた「文化」は、それを楽しむことのできる人たちによって作られ温存されている。性売買を基盤として発展した「日本文化」と呼ばれるものは、どのようなものなのか。
田中氏の文章には〈一貫して丁寧に描き込まれているのは着物です。遊女たちは決してその身体を描かれるのではなく、むしろ纏っている文化に絵師たちは注目しています〉とも書かれていた。私は、それは絵師が遊女に敬意を払っていたからではなく、男たちが彼女らを生身の人間としてではなく人形のように扱っていたからこそできることだと思った。遊女の中でもトップクラスとされる花魁は豪華な着物姿で凛とした表情で描かれ、休息中の様子も乱れた髪も、すべてが色っぽく描かれることで消費されている。修業中の少女は疲れて寝てしまったところを描かれ、だらしない姿として扱われつつも、努力家で愛らしいものとしてほほえましく消費される。格下の女性は貧相な姿で、乳を出した状態で描かれていて、それも消費される。女性をランク付けしてその扱いを変えることも、あらゆる女性のタイプや姿を性的に消費することも、今も男たちがしていることだ。
遊女を美しく描いた絵をブロマイドのように販売したのも、女性の写真をカタログにして客が選べるようにしたり、改装や新店オープン記念に女性たちを並べて新しいポスターを作ったりする今の風俗店と同じやり方だ。
支配を正当化するための「敬意」とは