「Colaboとつながる女の子」という表現
私は中高生世代の女の子たちを支える活動をしている。
けれど女の子たちを「助けたい」とか「救いたい」とは、今まで一度も思ったことも言ったこともない。そもそも誰かを助けられるとは思っていない。どんな時も「一緒に考えるよ」と伝えている。たまにメディアなどで「少女たちを救いたい、仁藤さん」とか書かれると、女の子たちは「出たよ」と苦笑する。
支援団体と言われたらそうなのだろうけれど、「支援」という言葉もなるべく使わないようにしている。「同行支援」「宿泊支援」などの単語は使うが、言葉にする時は「中高生世代の女子を支える活動をしています」とか「支え合いの関係性」というように意識して言い換えている。
Colabo(コラボ)はシェルターを運営していて、確かに虐待や性暴力などの被害や危険から逃れるために駆け込んできた少女たちに対し「保護らしい保護」をすることもある。しかしColaboのシェルターは、公的な支援や「保護」を望んでいなくて、「ちょっと休みたいから眠らせて」とか「今日はママの彼氏が来るから家に居たくないので泊めて」といった理由でも気軽に泊まれる場所としているので、「宿泊支援」という言葉を使っている。
また、Colaboのシェルターや事務所のフリースペースは、大人のスタッフが何かを「してあげる」場ではなく、女の子たちが自由に過ごせる場にしている。好きな時に布団を敷いて寝たり、ソファーで寝そべったり、キッチンを使ったり、ご飯を食べたりしていい。置いてあるお菓子も自由に食べていい。女の子たちは遊んだり、勉強したりと、好きなように自分たちで過ごしている。食事も大人の支援者が「作ってあげる」のではなく、一緒に作ったり、作ってもらうこともある。
緊急性が高い時など「支援らしい支援」を必要とする子もいるので、支援の専門性や「保護」も必要になるけれど、大切なのは日常の中で「共に生きる」「共にいる」ということだと思っている。疲れた時に休める場所や関係性の一つになれたり、困ったり何かあった時、思い浮かぶ顔になれたらいいと思う。
行政への説明や寄付を頂いた人への報告などに必要なので、報告書には女の子たちのことを「利用者」「相談者」などとモヤモヤしつつ書くこともある。けれど、そういう呼び方もなるべくしないようにしていて、講演などでは「Colaboとつながる女の子」という言い方を意識的にしている。彼女たちも、Colaboとつながる女の子たちのことを個人名以外で話す時は「Colaboの子」と言っている。
決めるのは私ではなく、あくまでも本人
支援につながらず、街をさまよう生活を送っている少女たちの多くは、自分の困りごとに気付いていなかったり、共に状況を整理する大人がそばにいなかったり、「相談する」ということを思い付かなかったり、「逃げるな」「甘えるな」「お前のせいだ」などと言われて育ってきたりしたことなどから、「相談」や「支援を利用」という言葉や行為に抵抗感を持つ。そのためColaboでは、「相談」を目的としない場を提供することで、そうした少女たちに出会い、利用してもらいやすい雰囲気作りを行っている。
そして「問題解決」のみを目的としない「伴走支援」を行い、「共にいて関係性を持ち続ける」ことで一時的な支援ではなく、その人の人生そのものに寄り添えたらと思っている。
Colaboのホームページ(https://www.colabo-official.net/ →外部サイトに接続します)をリニューアルする時、「最近、支援団体感が強く前に出過ぎている気がする。これからつながってくれる子たちに対して、Colaboの雰囲気や大切にしていることをそのまま表せるように、当事者運動とか、エンパワメントグループ感を出したい」と女の子たちに相談した。そうしたら、「まだそんなこと理解される世の中じゃないからやめときな。支援団体と言った方がお金集まるよ」と言われたことがある。
そんな社会の状況も含めて達観して、発言ができるまでにはどれだけの経験があったのだろうか、と思った。
家で安心して過ごせなかったり、大人を信用できないでいたりする中高生が、支援につながる前に危険に取り込まれている。しかし多くの場合、「支援」は上から目線で押し付けがましいこともある。
そういう関係性でなく、もっと気軽に緩やかにつながれる、「保護」を求めていなくても利用でき、疲れた時にはちょっと休めて愚痴れる場所が増えたらいい。そうした中で何かの時にそれを伝えてもらえたり、こちらが気付いて声を掛けたりできたら……。もしかしたら、彼女たちより少し制度や仕組みのことなどに詳しい者として、少しだけ先に生まれた者として、力になれることがあるかもしれない。一緒に考えることができるかもしれない。
そういうことくらいしかできないけれど、それが大切だと思っている。
中には冷たいと思う人もいるかもしれないが、私はColaboへ連絡をくれた子に「助けてほしい」と言われたら、「助けることはできないかもしれないけど、一緒に考えたい」と伝えている。私は神様ではないので、助けたり救ったりすることはできないと思っている。一緒に考えたり行動することはできるけど、選択して決めるのは私ではなく、あくまでも本人なのだ。
自分より弱い立場の他者を尊重すること
支配や暴力のある環境で育つと、「好きな色は何か?」「今、何が飲みたいか?」ということも、自分の意思で考えられなくなることがよくある。支配が強い環境にいた人は、「あなたはどうしたい?」と言われても、それが分からない。だからといってこちらが決めてしまったら、それは支配になる。
例えばピンクと青のハンカチのどちらかを貰える時に、「自分で決められない」「代わりに決めてほしい」「夢乃さんはどっちがいい?」などと訊かれることがある。そういう状態で過ごしてきた子が、学校で「進路はどうする?」と聞かれても、すぐに自分の考えを見つけ出すのは難しいだろう。しかし、小さなことでも自分で選択して、その選択が尊重される経験を繰り返す中で、「何を食べたいか」「何色が好きか」「進路をどうしたいか」といったことを考えたり、選択したりできるようになってくる。
それぞれが気張らずにいられる関係性や雰囲気を女の子たちも大切にしてくれているから、そんな場作りが継続され、Colaboの活動は成り立っていると思う。Colaboの活動は困っている子を助けてあげるとか、守ってあげるということではなく、「互いに尊重し合う」という、当たり前でありながら現代社会の中では難しくなっていることを、出会った女の子たちと共にしている感じなのではないか、と思う。
その中で、私は年上で、団体の代表で、女の子たちより立場も影響力もある――ということに自覚を持ち、驕ったり自らの権威性にあぐらをかいたりすることがないように、対等になりきれないことも含めて自覚し、対等性を意識し、間違った時は誠意を持って謝れる人でありたいと思っている。
幸いにも私の周りには、そういう人生の先輩たちがいる。
権力を持った人がその力を自覚したり、自分より弱い立場の他者を尊重したりすることは、そんなに難しいことなのだろうか? 自分こそ弱者であるかのような振る舞いをする、権力を持った人たちに、私はそんな問い掛けをしてみたい。