私たちは『買われた』展を終えて想うこと(1)からの続き。
ネットでの中傷
メディアで企画展の開催が報じられると、ネット上には中傷的なコメントがあふれた。「買われた展」でネットやツイッターを検索すると、その様子がわかるはずだが、中傷コメントは無理解な人がたくさんいることを表していて、企画展の一部のようにも感じられた。
「売った女は罪を償うべき存在だ」というようなコメントに、「私は罪を犯した人間なんだ」と思い、苦しんだ高校生もいた。特定の展示物について、「頭が悪そう」「どうせ障がい者だろ」「買ってもらえただけ感謝しろ」などと中傷するコメントもあり、「気にしないようにしよう。見ないようにしよう」と言っても、彼女たちの多くは「みんながどう思っているか知りたくて、気になって検索してしまう」と話した。これらのコメントに対して、企画に参加していない女の子や、Colaboと直接つながりはないけれど同じように苦しんできた子たちも傷ついているのではと想像した。
そうしたコメントを目にし、「読んでいてとても悲しい」「凹んだ」「見てもいないのに、ひどい言われよう……」「何も知らないくせに、わかっていないくせにひどいこと言って、理解のない言葉とかめっちゃ嫌だし、傷つくし、悔しいです」などと言いながら、それでも、彼女たちはこんなふうに話した。
「ネットの人たちにも、来て何か感じてほしい」
「私は見に来てくれる人たちの意見、いろいろな声をすごく楽しみにしています」
「生の声だけを信じることにします」
そうした他のメンバーの言葉を聞いて、「自分も辛い経験をしたのに、生の声を信じようって言えるの、強いね。見たらみんな凹むと思うし、辛くなるし悔しいけど、今日来てくれてた人とか、明日から来てくれる人とかの考えが変われば……と思います」という子もいた
「みんな強くあろうとしている。無理している。また耐えている」と、私は思った。差別的な書き込みに「やるんじゃなかったと思った」という子もいた。希望を見失いそうにもなった子もいた。そんな環境を作っている社会があり、私たち一人ひとりに責任があると考えている。
生の声に励まされる
実際に展示を見てくれた来場者の声は、この現状に向き合おうとするものが多かった。会場には当事者や元当事者、性被害やDV・虐待などのサバイバーの人、中・高校生、大学生、フリーター、保護者、教育・警察・医療・行政の関係者、児童養護施設や少年院に勤務する人、子ども・女性・困窮者の支援に携わる人、弁護士、政治家、タレントなど、さまざまな立場の人が来場した。ある男子高校生は、彼女に性被害にあったり売春したりした経験があり、気持ちや現状を知りたいと足を運んでくれた。2日連続で来場した男子高校生もいた。
多くの人が1~2時間じっくりと展示を見て、涙を流しながらアンケートにメッセージを書く人もいた。性別や年齢を問わず、展示の所々に自分の体験と重なることがある、と話してくれた人もいた。アンケート用紙には自身の体験や想いを綴ってくれた人も多く、声にならなかった声が集まっていることを感じた。自分も当事者・元当事者である、と書いてくれた人が100人以上いた。これまで誰にも話せなかったという体験を伝えてくれた人もいる。「今、普通に会社員として働いています」「子どもを育てています」など、過去の体験を隠して「普通に」生活していると書かれたものも複数あった。きっとみなさんのまわりにも、身近な所に似た経験を持つ人がいるだろう。
開催前日の会場準備には4人のメンバーが参加し、他にも会期中にメンバーが6人、時間外などに会場にやってきて、来場者からのアンケートを一つひとつ読んだ。ネットでの言葉の暴力に傷ついていた子も、生の声に励まされていた。
管理、指導、矯正ではなくケアの視点を
ネットには「男ばかり責められるのはおかしい。自分で売っておいて被害者ぶるな」というコメントも目立ったが、私は売春に関しての法律や取り締まりは男女不平等であり、実態と合っておらず問題だと考えている。
第一に、売春防止法第5条の勧誘罪が女性にしか適用されないことである。昨年、ツイッターを介して売春していた16歳の少女が勧誘罪で逮捕された事件では、「少女は遊ぶ金ほしさに売春し、映画を観たり洋服を買ったと証言した」「少女は高校を中退して半年間家に帰らず、居所不明になっていたため任意の事情聴取ができず、逮捕に踏み切ったと警察は説明している」などと、さまざまなメディアが報じた。
この件で、ある記者に「なぜ少女が軽い気持ちで売春してしまうのか」と聞かれた。私は逮捕された少女のことを直接知らないが、報じられている状況を気軽なものとは思えなかった。半年間も家に帰らず生活するには、食事代や宿代も必要だ。ファミレスで299円のドリアを食べたり、マンガ喫茶でシャワーを浴びたりするなど、売春で得た金を食費や生活費にしていたのではと想像した。映画のチケットや服を買ったというが、生活には娯楽や衣類も必要だろう。
昨年、中学生を買春した教員が、LINEに残された証拠に対し「買春を持ちかけたが約束の場所には行かなかった」と容疑を否認した事件もあった。街でもネット上でも、買春を持ちかける男性はたくさんいて、アプリやSNSによって密かに子どもたちに声をかけることができる状況もある。今回の企画では、そういう存在や状況に目を向けてほしいという想いもあった。
また、警察が買春者のふりをして少女に近づき補導する「サイバー補導」では、日本で禁止されているはずの「おとり捜査」のようなことを「補導」の名のもとで行っている。私は、売春や家出などの「非行」といわれる行動をとることは、子どものSOSだと思う。しかし、本来大人の支えを必要とする困難を抱えた子どもが補導されても、家庭や学校に連絡をし、指導・注意をすることが基本的な対応であり、ケアにつなげることはほとんど行われていない。
特に、虐待や児童買春など暴力の被害にあっている場合では、心身共に傷ついており、医療、福祉、教育的なケアや支援、家庭への介入が必要な場合が多いと考えている。また同時に、親への支援も必要である。私は補導が、子どもへの管理や指導、矯正ではなく、ケアの視点を持ったものになることを望んでいる。また一方で、買い手である大人へのサイバー補導や、注意指導がなされていない状況も改善すべきだ。
今回の企画展では、メンバーの姿や体験を伝えることに力を入れた。まずは知って、感じてもらい、議論を始めるきっかけになればと考えている。「私たちは『買われた展』」であって、「だから私は『売りました』展」ではないことを、今後も丁寧に説明していきたい。
日本では児童買春は「少女売春」や「援助交際」などと呼ばれ、少女が主体性をもって行うものだとか、大人から少女への援助であるかのように語られることが多い。金銭のやり取りを介することで、暴力を正当化したり、対等な関係があると主張する人も少なくないが、お金を持つ大人が、社会から孤立した子どもを“買う”という現場にあるのは、「援助」や「交際」ではなく、「支配の関係性」と「暴力」である。
ブランドものほしさに少女が売春し、それを大人の男性が援助するというイメージを持つ人が多いのは、これまで多くのメディアや論客がそうした視点から児童買春を語り、作られた社会の風潮があるからではないか。
「自分は好きでやっているんだ。お金をこんなにもらえた~」と嬉しそうに話すことで自分を保とうとしていた、と打ち明けた高校生もいる。企画展に参加してなお「売ってしまった自分が悪い」「断れなかった自分が悪い」と、自分を責め続ける中・高校生もいる。中には、小学生の時に被害にあった子もいる。
彼女たちを軽蔑したり、差別するのではなく、彼女たちがどうしてそういう状況に至ったのか、そうせざるを得ない状況を生き抜いてきたことの意味について、考え、背景を想像できる人が増えてほしい。