東京・立川の米軍基地の近くで生まれ育った伊勢崎賢治
元山仁士郎(聞き手) この本(『主権なき平和国家』)の冒頭の部分で、米軍基地の近くで生まれ育ったというエピソードが紹介されていました。そこをもう少し詳しくお聞きしてもいいですか?
伊勢崎賢治 僕が生まれた当時は、まだ東京都にも色々な米軍基地がたくさんあった。立川には広大な米軍の飛行場があって、立川生まれの僕としては、それが原体験です。立川は、JRの中央線で北と南で分かれているでしょう。北は米軍基地があって、米軍の兵士が遊ぶ場所がたくさんある。その相手をするジャズバンドとか、ばくち打ちとか、そういう夜の世界を仕切るやくざ。そうした人たちが跋扈(ばっこ)する世界でした。
ちょうどベトナム戦争で、ベトナムから米軍が死体を持って立川基地に帰って来る。その死体洗いのアルバイトは、当時でも1日1万円くらいもらえたのかな。僕は小さいからできなかったけれども、先輩たちはやっていました。そういう思い出ですね。非常に猥雑な思い出があります。僕もそういうところで、貧民街の中で育ちました。うちのおふくろは洋裁で生活していたんです。母子家庭で、母一人子一人。それでおふくろのお客さんは、バーで働いている女性。「夜の蝶」みたいな、そういう人たちとずっと一緒に生活をしていました。
当時の立川飛行場でも、よくオーバーランが起きた。ヘリコプターはいなかったかな。とにかく大きな輸送機がオーバーランして、滑走路をはみ出て、農家に突っ込んでいく。それで人が死んで、畑が台無しになってしまう。そういう事件は多発していました。あとは騒音がすごかった。彼らは本当に夜中でもエンジンをテストでふかしたりするわけです。
布施祐仁にとっての米軍基地のイメージとは
元山仁士郎(聞き手) 布施さんの米軍基地に対するイメージは、どういうものですか?
布施祐仁 僕の米軍基地に対するイメージは、実家が神奈川県の厚木基地、空母艦載機の基地ですけれども、その近くだったので、小さい頃から航空機の騒音は非常にうるさかったのを覚えています。ただ、日常的に飛んでいるので、どうしても慣れてしまっていました。あとは、米軍基地があるから日本の平和が保たれているのだろうなという、漠然とした印象しかありませんでした。
けれども、大人になって一番イメージが変わったのは、2003年、4年とイラクに取材に行った時です。向こうにもたくさんの米軍基地があり、日常的に同じ音がしました。ただし、唯一違ったのは、頭上を航空機の音がしていった後に、爆撃音、つまり爆撃をやっていたのです。その音を聞いた時に、ただの騒音というのではなく、その先に「じゃあ何のために訓練しているのか」と。日本ではないけれども、海外に出て、イラクとかそういうところで爆撃をしている。そういう戦場とつながっているということを知って、イメージが大きく変わりました。その後は、やはり実家に帰って航空機の音がするたびに、イラクのことを思い出します。