「ビリーには未来がある!」――『リトル・ダンサー』
もちろん、子どもには自らの手で将来を切り拓く力もあります。しかしそれを後押しするには親の理解と協力、つまり親が子どもを理解する力がなければ、子どもは自らの人生を歩むことはできないでしょう。
『リトル・ダンサー』(スティーブン・ダルドリー監督、2000年)は、イギリスの炭鉱地であるダーラムを舞台に、11歳のビリー・エリオットがその地を抜け出し、ロイヤル・バレエ学校に入学、見事バレエダンサーになるまでの軌跡を描く作品です。父子家庭で、父ジャッキーと兄トニーは炭鉱夫として働いています。何よりも男らしいことが求められる炭鉱労働者の社会で生きるため、父親は、音楽に興味を示すビリーをボクシング教室に通わせます。
ところがある日、ビリーはふとした偶然からバレエ教室に足を踏み入れ、踊ることの楽しさに開眼します。この時、彼の隠れた才能を見出すのは、地元の専業主婦でバレエ教室の教師を務めるウィルキンソン先生で、彼にロイヤル・バレエ学校の受験を勧めます。『ドイツ零年』のエニングと違って、彼女はビリーに自分の夢を託したのです。もっとも、ボクシング教室に行くふりをしてバレエ教室に通っていたことがばれて、ビリーの父親は烈火の如く怒ります。父親にしてみれば、バレエダンサーはゲイ男性がやるものにしか見えません。
イギリスの労働者文化を分析した名著に、若年層がいかに労働者階級から抜け出すのが困難なのかを克明に綴った名著に『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス、熊沢誠・山田潤訳、ちくま学芸文庫、1996年)があります。この文化人類学的な研究が明らかにしたのは、イギリスの階級構造があまりにも強固であるために、労働者階級の子どもたちは自助努力や立身出世などが建前に過ぎないことを早くから見抜いており、ここから社会階層上層のための制度、とりわけ学校などに背を向けて対抗的な文化を自ら作りあげるというものです。それはまた、彼らがプライドを維持していくために必要なことでもあることも強調されています。つまり、労働者意識こそがむしろ階級社会を強固にしてしまうという皮肉があることを指摘するものです。
映画の時代背景にも注意する必要があります。作品が展開するイギリスの1984年といえば、79年に発足したサッチャー保守党政権と労働組合がもっとも激しく対立していた年に当たります。サッチャー政権は、1970年代から続く景気低迷と生産性の低さ(「イギリス病」と呼ばれました)が、労働組合の賃上げ要求と繰り返されるストライキのせいだとして、違法ストを厳罰化するなどの労働法改革を掲げ、全面的な対決姿勢を取ります。彼女は回顧録で「組合は、不十分な生産に対して法外な賃金を要求して多くの組合員を失業させ、また、イギリス製品の競争力を弱めた」「私は1970年から74年にかけての保守党政権の歴史から推測して(引用者註:当時の政権は労組に妥協した)、炭鉱ストに対処すべき時が来ることをほとんど疑っていなかった」と記しています(マーガレット・サッチャー『サッチャー回顧録』石塚雅彦訳、日本経済新聞社、1993年)。こうして、労働組合は炭鉱を閉鎖するピケ活動を全面的に展開し、警官隊との小競り合いが各地で起きることになったのでした。
映画では、当時の雰囲気が忠実に再現されています。ビリーの父と兄もこのピケに参加し、生活のために止む無くスト破りをする同僚を面前で非難します。もっとも政権の改革によってスト参加者には給与が支払われず、クリスマスにはビリーが大事にしていた母親の残したピアノを壊して燃料にせざるを得ないほどに生活は困窮していきます。強硬姿勢に出るサッチャー政権に組合の抵抗が負け戦となりつつあることは、時間が経つにつれ、明らかになっていきます。バレエ教室のウィルキンソン先生は「あの子まで酔いどれの炭鉱夫にさせるつもりなのか」と父親に啖呵を切ります。
当時流行った曲に合わせてビリーを演じる俳優ジェイミー・ベルが披露するダンスは見事としかいいようがありませんが、そんなビリーの踊りを目の当たりにした父親は、彼の才能を認めるに至ります。ただ、一度逃したオーディションを今度はロンドンで受けるため、上京のための資金を工面しなければなりません。そのため、彼は引き裂かれる想いでスト破りを決行します。詰め寄るトニーに彼は涙ながらに反論します。「俺たちに未来が? おしまいだ。だがビリーには未来がある」――没落する炭鉱地と衰退する職業にしがみつくのではなく、未来をビリーに託すことに望みをかけることを宣言するこのシーンは、映画のおそらくもっとも感動的な場面です。
ビリーが踊るのをみた父ジャッキーが心変わりした理由は、映画のなかではあまり詳しく触れられていません。それでも、ただただ踊ることに喜びを覚えるビリーをみた彼が、自分たちが仲間とともに作ってきた歴史はもはや過去のものになりつつあること――地方から都市へ、共同体から個人へ、職業から才能への社会の移り変わりという新自由主義の時代――を悟ったからこそ、ビリーの才能を見出すことができたのだといえます。
冒頭に紹介したパットナムは「子どもは社会の先行指数だ」と指摘します。社会のしわ寄せを子どもたちに押し続けている社会に未来はないでしょう。彼ら/彼女らを大事にしない社会は、彼ら/彼女らからもはや大事にされないからです。子どもたちに最善のものを手渡しつつ、その背中をそっと押してあげること――子どもたちが社会の矛盾を一気に背負わされている現状を変えるためには、まずはそこから始める必要がありそうです。