「こども家庭庁」の発足準備や児童虐待をめぐる報道が相次いでいるように、最近になって子どもをめぐる政策や事件が大きく注目されるようになりました。なぜ今になって「子ども」についての話題に関心が集まっているのでしょうか。
その背景には、子どもの置かれている状況があります。コロナ禍では、ロックダウンや休校の影響もあり、例えばアメリカの若者の4人に1人が自殺を検討したことがあったり、イギリスの若者の3割が精神状態の悪化を経験したりしたとの調査結果があります。日本でも、2020年に小中高生の自殺数が最多を記録しました。ただ、日本の子どもの自殺率は2010年から増え続けており、子どもたちが直面している苦難の理由をパンデミックだけに求めるわけにはいきません。
政治学者ロバート・パットナムはその名も『われらの子ども』(柴内康文訳、創元社、2017年)というタイトルの本で、現在のアメリカの子どもたちが格差社会の最大の犠牲者であるとしています。ここでは、経済成長が止まったことで、それまでの社会的平等を実現していた社会経済的な階層間の流動性がなくなり、子ども間の格差を生んでいる現実が綿密に調査されています。例えば、1983年と2007年の間で、子ども1人当たりの支出は所得分布の上位10%の家族で75%増えた一方で、下位10%の家族では22%も減っており、格差の負の連鎖が拡大していると指摘します。
さらに、本来ならば、教育こそが不平等是正のための手段となりますが、成績が悪い富裕層の子どもと成績の良い貧困層の子どもが大学卒業する確率は同じ程度であるという数字から解るように、学業で成功できるかどうかすらも、家庭の所得に比するようになってしまっているとします。
いうなれば、子どもは脆弱であるがゆえに、私たちが抱えている社会の問題のしわ寄せをもっとも直接的に受ける存在でもあるのです。そんな社会の映し出す子どもたちの姿を、時代を追って映画のなかに求めていきましょう。
生き残ることの代償――『ドイツ零年』
第二次世界大戦後の混乱とそこでの人々の生活に焦点を当てたのは、イタリアの「ネオ・レアリスモ」と呼ばれる作品群ですが、これらには、有名な『自転車泥棒』(デ・シーカ監督、1948年)や『無防備都市』(ロッセリーニ監督、1945年)など、子どもたちを主人公にしているものが多くあります。なかでも名高い『ドイツ零年』(ロッセリーニ監督、1948年)は、戦争のみならず、子どもに対する社会の残酷さをストレートに描き切った作品です。ロッセリーニは、この映画は「子どもの人権について」のものだと掲げ、「イデオロギーの偏向は犯罪と狂気を創り出す。それは子どもの純真な心までも汚染せずにおかない」とエピグラフに記してもいます。
タイトルから解るように映画の舞台はドイツの首都ベルリンで、まだ戦火の爪痕が色濃く残る1947年に撮影されたものです。12歳の主人公、エドモンドは病気の父親と兄と姉の4人家族で、他の家族とともに肩を寄せ合って暮らすアパートの住人です。元ナチ党員だった兄は逮捕を恐れて外出せず、気丈な姉は父親の面倒をみなければならないため、実質的な働き手は彼1人しかいません。家計を助けようとエドモンドは懸命に働き口を探します。街中に貧困が蔓延するなかで、大人とて、生きていくのに必死だった時代。大人の真似をしようとしても12歳でできることはたかが知れており、行く先々で邪険に扱われます。
そんな矢先、彼は街角でかつての担任の教師だったエニングと偶然の再会を果たします。ナチスの残党でもあるこの教師は、仲間とともに闇市商売をしており、エドモンドにその手伝いをさせます。そしてエドモンドにこう諭します。「苦しい時に情けは無用なんだ。生存競争さ」「弱い者は強い者に滅ぼされる」――これはナチスの優生思想そのものであることから、エニングは戦中も戦後も同じ環境に生きていることを示唆しています。
エニングのお陰で幾ばくかのお金を手に入れ、エドモンドはこうしたナチスの思想に感化されていきます。病床に伏して生きる意味を見出せない父親は言います――「わしは全部とられた。財産はインフレに、子どもたちはヒトラーに。反逆する力もなかった」。こう嘆く父親を憐れんだからなのか、それとも口減らしをするためだったのか、エドモンドは自ら父親を毒殺するに至ります。
家族を自らの手で崩壊させ、ストリート・チルドレンたちの仲間にも入れず、エニングにも父親殺しをした自分を受け入れてもらえなかったエドモンドに最後に残された道は、廃墟ビルから自らの身を投じるという痛ましい選択でした。