「野心はもってもいいけれど、もちすぎてはいけません。成功するのを目指さなければいけないけれど、成功しすぎてはいけません。そうしないと男性に対して脅威になってしまいます。男性との関係であなたのほうが収入が多くなっても、そうでないふりをすること、とくに人前ではそうしなければいけません。そうしないとその男性を去勢してしまいます」
この言葉は、著者は後述するが『男も女もみんなフェミニストでなきゃ(原題:WE SHOULD ALL BE FEMINISTS)』(2017年、河出書房新社 くぼたのぞみ訳)の一節である。世界中の女の子に対して、小さな頃から投げかけられる、いわば「呪いの言葉」の一例として紹介されているものだ。
そんな呪いの言葉に対して、著者は「その前提そのものを疑ってみてはどうでしょう?」と私たちに問いかける。
多くの女性は、小さな頃から様々な叱咤激励の言葉に晒されて生きてきた。
頑張れ。努力しろ。常に上を、成功を目指し、競争では勝ち残れ。
しかし、同時に冒頭のような、「でも、男以上に成功するな」という言葉を耳元で囁かれてもきた。絶え間なく注がれるダブルスタンダードなメッセージ。私自身、生まれてこの方、この「呪い」から解放されたことは一度もないと言っていい。
例えば、付き合っていた男性より収入が多くなった時の妙な居心地の悪さ。私が男であれば決して居心地の悪さを感じることなどないのに、なぜそのことを隠したり、果ては「自分の能力ではなく偶然の産物なのだ」などと先回りして余計な言い訳をしたのだろう? いや、そうしなくてはいけないと思い込まされていたのだろう?
そんな私のもやもやを言葉にしてくれたのが、前述した『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』なのだ。
著者は自身の具体的なエピソードから、私たちに問う。
子どもの頃、テストで最高点をとったらなれるといわれていた学級委員。晴れて最高点をとったものの、学級委員になれるのは男子だけと知った時の違和感。大人になって駐車係に自らチップを渡しても、なぜかお礼を言われるのは自分でなく一緒にいる男性という不思議。入店時にウェイターが女性の自分は無視して、男性客にだけ挨拶をするレストラン。そして夫が赤ちゃんのおむつを替えるたびに、「ありがとう」と言う妻の存在。
どれもこれも、既視感を覚えるエピソードではないだろうか。そんなこの本の著者は、ナイジェリア出身の女性作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさん。1977年生まれである。本書は、学術・エンターテインメント・デザインなど様々な分野の専門家を招いて講演会を主催するアメリカの非営利団体「TED」が、2012年に開催したTEDxEustonという会議で、彼女が行なったスピーチに加筆したものだ。
スピーチの模様は動画サイトで瞬く間に拡散され、アメリカでは人気ミュージシャンのビヨンセが、語りの一部を取り入れた曲『***Flawless』を13年に発表。クリスチャン・ディオールは、「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」という文字入りのTシャツを作って、17年春夏パリ・コレクションでモデルに着せ、またスウェーデン政府はこのスピーチを冊子にして16歳の子どもたち全員に配布した。
ナイジェリアの女性が、日本に住む私と変わらない違和感を抱えていたこと。そしてそれが世界中の女性たちに共感を呼んだこと。なんだ、このもやもやって、世界共通のものだったんだ。そう思うと、なんだか勇気が湧いてくる。同時に、男社会の磐石さに、改めてため息も込み上げる。原書の『WE SHOULD ALL BE FEMINISTS』は、世界27カ国で翻訳出版されているという。
世界共通の女子の生きづらさ。それと同時に、日本独特の女子の生きづらさも確実に、ある。そんな日本独特の問題に切り込んでいる一冊と出会った。それは『男尊女子』(17年、集英社)。著者は『負け犬の遠吠え』(03年、講談社)などでおなじみの酒井順子さんだ。
他の国々とはひと味違う、この国独特の女子の生きづらさとはどんなものだろう。酒井さんが指摘するのは、「女は三歩下がって」的な昭和の価値観や、日本のAV(アダルトビデオ)と海外のAVの違いなどだ。例えば海外のAVでは、女優は肉食獣的に性を謳歌するのに対して、日本の場合はあくまで受け身、表情で男の征服欲を刺激するという演出。また、カップルとセックスが切り離せない関係の欧米と、セックスレスが異様に多い日本の夫婦。一方で、女性が性に積極的だったりすると、「痴女」枠にしか存在できないという窮屈さである。
本書の帯には、「あなたの男尊女子度チェック表」がある。以下のようなものだ。
「運動部員系のマネージャーをしていたことが ある/ない」
「自ら進んで男性社員にお茶汲みをしたことが ある/ない」
「九州出身の男性と付き合っていたことが ある/ない」
「夫のことを『主人』と言ってしまうことが ある/ない」
「『“うちの嫁”と言われてみたい』と思ったことが ある/ない」
「男性目線でファッションを選んだことが ある/ない」
「バカなふり、無知・無教養を装ったことが ある/ない」
「『好きな人の苗字になりたい』と思ったことが ある/ない」
どうだろう。「一つも『ある』が無い」なんて人は、おそらくいないはずだ。今となってはやらないことばかりだが、私自身も若かりし頃は、かなりの確率でこれらのことをやっていた。特に「バカなふり、無知・無教養」は多くの女性に経験があるのではないだろうか。
本書でも酒井さん自身が、無知を装う女子が男子に「バッカだなぁ」などと言われて頭をくしゃくしゃ撫でられたりしているのを見て、イライラを募らせていた日々が描かれる。しかし、「羨ましさのあまり、自分もこっそりと男子の前でものを知らないふりをしてみると、これが意外とよく効くではありませんか」。この快感を、彼女は「生理に響く快感」と書いている。そうして「女の世界には二つの軸がある」ことを知るのだ。それは「お勉強ができることによって評価が上昇する軸」と、「お勉強ができることによって評価が下落することもある軸」。「勉強」を「仕事」に置き換えてもいいだろう。
まさに女子を悩ませる、ダブルスタンダードである。
それにしても、どうしてあんなに「バカで無知なふり」をしていたのだろう、とふと思って、気づいた。それは明らかに社会が「求めている」ものだったのだと。
例えば私の場合、20代前半の仕事がスナック勤務やキャバクラだったので、「バカで無知キャラ」は必要不可欠なものだった。オジサン客に対して、知っていることを「知らなーい!」と叫び、そこに「すごーい!」と付け加えれば、指名が取れたりボトルを入れてもらえたりする。しかし冷静に「知ってます」と言うと、オジサンは大抵不機嫌になるのだった。
この人たちはどうして金を払って、「若い女」に何かを教えたくてたまらないのだろう? なぜ、無知であることが、「かわいいな、こいつ」というようなことになるのだろう? これまでの教育課程で獲得し、努力して詰め込んできたことはなんだったのだろう?
すべての努力が無に帰すような感覚に徒労感を覚えつつも、私は一生懸命、無知のふりをした。だって「知らない」ふりをしないと、「生意気」なんて言われるからだ。そしてそれはオジサンだけでなく、若い男性にも及んでいた。オジサンの真似をしているのか、それとも「無知ではない」女性と渡り合えるほど自分に自信が無いのか、「無知」=「かわいい」とする価値観は幅を利かせていた。
だから仕事以外でも、無知キャラは必要だった。なんだか納得しなかったけど、そういうことなのだと思い込もうとした20代。この辺りで、私はジェンダー非対称性などについて、考えることを放棄した。あえて、思考停止した。それが唯一の防衛策だったから。
そうして40代になって「若い女」扱いされなくなった今、長らく封印していたジェンダーへの疑問は爆発し、こうして書いているという次第だ。
さて、そんな無知装いプレー問題だが、本書で面白い記述を見つけた。
それは、かの紫式部もモテるため、生きるために無知を装っていたという事実だ。教養豊かで、漢文の知識が豊富だったという紫式部。しかし「男だって、学問をひけらかすような人は、たいてい出世しないものだ」という話を聞き、漢字とか書けないんです私、というふりをするようになったのだという。
一方、紫式部と同じように漢文知識が豊富だった清少納言は、「私、こーんなに知ってるの」と知識をひけらかすタイプ。それがまた一部の男性にウケたことから、紫式部は「したり顔に賢こぶって漢字を書き散らしてるけど、よく見れば全然なってない。ああいう人間は絶対、将来ロクなことにならない」などと、さんざん悪口を書いていたのだという。「紫式部日記」の中で。
無知装いプレー問題を考える
(作家、活動家)
2017/08/02