今年(2022年)も残すところあとわずかだ。
思えば不穏な1年だった。
コロナ禍は3年目に突入。年明けそうそうには、ロシアによるウクライナ侵攻という信じがたい暴挙が起きる。多くの専門家が短期での収束を予言していたが、それは長引き、多くの命を奪い続けている。まさか21世紀になって、これほど悲惨な光景を目にするとは思わなかったというのが正直な感想だ。「次の戦争」は、私たちにとって常に近未来的なものだった。しかし、過去の戦争映画のような戦いと殺戮が今も続いている。11月には、日本人志願兵の死も報じられた。
そんな今年の7月には、信じがたい事件が起きた。参議院選挙中の安倍晋三元首相が銃撃され命を落としたのだ。白昼堂々、手製の銃で元首相を撃ち、逮捕された41歳・派遣社員の山上徹也は旧統一教会(宗教法人世界平和統一家庭連合)に高額献金をつづける母親のもと、人生を大きく歪められていた。
事件以来、メディアは旧統一教会一色に染まり、多くの自民党議員(自民党だけではないが)が旧統一教会関連のイベントに出席し、来賓挨拶をし、祝電を送り、また人によっては政策協定まで結んでいるという「カルト汚染」が明らかになった。なんだか戦後の日本の歴史そのものがひっくり返るような衝撃に、今もどこか放心状態である。
そうして年の瀬の現在、庶民を苦しめているのが猛烈な物価高だ。10月末、困窮者を対象とした都内の食品配布には、過去最多の631人が行列を作った。コロナ以前の約10倍の数である。また、弁護士らが生活や仕事について相談を受ける電話相談には、「物価が高くてとても暮らしていけない」という声が多く届いている。
そんな22年、本連載のテーマである「女子の生きづらさ」や「ジェンダー」について、考えさせられる出来事は多くあった。
気になっているのは、イランで広まったデモだ。
事の発端は9月、22歳の女性、マフサ・アミニさんが亡くなったこと。ヒジャブの着け方が悪いと、服装の戒律違反を取り締まる道徳警察に逮捕され、その後、急死したのだ。警察は心臓発作と発表しているが、警官の暴行によって死亡した疑いが強いと言われている。
日本だったら、「着物の着方がなってない」と「権力を持った隣組のオッサン」みたいな人にいちゃもんをつけられ、暴行の果てに殺されたというような話だろう。どう考えても許しがたい。
その思いは、イランの女性たちも一緒だった。これを機にイラン全土でヒジャブを脱ぎ捨てる運動が広まったのだ。女性たちは「女性、生命、自由」をスローガンに掲げ、「独裁者に死を!」と声を上げ始めた。アミニさんの死後40日、イランで「喪が明ける」日には彼女の墓地周辺に約1万人が集まったという。
しかし、デモへの弾圧は激しい。9月末のデモでは、治安当局による取り締まりで83人が死亡したとも報じられ、ある人権NGOは、政府の弾圧による死者はこれまでで少なくとも326人と伝えている。それだけではない。11月には、イランの革命裁判所がデモ参加者1人に死刑判決を言い渡している。
もし私だったら、と胸に手をあててみる。その場で殺害され、或いは投獄され、死刑判決を受けるかもしれない覚悟でデモに参加する勇気があるのかと。そう問われれば、とても首を縦にはふれない。しかし、イランの女性たちはそれでも命がけで声を上げているのだ。
そのことを思うと、デモに参加しても死ぬ恐れはない国に生きる者として、せめて連帯の表明をしたいと思う。同時に思うのは、国や言語や宗教や文化背景が違っても、「女だから」「女のくせに」という抑圧が我慢ならない女性たちは世界中にいるということだ。そのことに、胸が震える思いがする。
さて、そんな「遠い国」の女性たちのことを知りたいという人にオススメの漫画がある。
それは、やまじえびね著『女の子がいる場所は』(KADOKAWA、2022年)。アフガニスタン、インド、サウジアラビア、モロッコ、日本の女の子たちの日常を描いた作品だ。
一夫多妻制が認められているサウジアラビアでは、顔も見たこともない人と結婚することが特別なことではなく、女の子は小さな頃から結婚を強く意識させられる(しかもサウビアラビアは18年まで女性が車の運転をすることが禁じられていた)。
「女だから」学校に行かせてもらえず読み書きができないまま15歳で嫁いだモロッコの「シャマおばさん」は、自らの経験から性別役割分業を子どもたちに押し付けてしまう。
夫に先立たれた女性は「不吉な女」と言われて再婚は難しいインドで、お金持ちと再婚した母親のもとで育つカンティは、新しい父親に決して逆らえず、しかし、利用することを密かに決意する。
最後の章には、戦争が終わったアフガニスタンで学べるようになった女の子たちの喜びが描かれている。しかし、再びタリバンがやってきたところでページは尽きる。
全編通して浮かび上がるのは、多くの国で「女だから」という抑圧があること、そして多くの女の子たちがそれに疑問を持っているということだ。遠い国の誰かの生きづらさを想像するだけで、胸のなかのモヤモヤは普遍的なものになる。コロナ禍でなかなか自由に移動できない時期だけど、海の向こうの誰かの息遣いを感じられるような作品だ。
さて、今年に出版された漫画で紹介したいものがあと2冊ある。どちらも女ならではの「生きづらさ」がテーマの一つになっているものだが、まずは「女は家事やケア労働をやって当たり前」という思い込みと深く関わるものを先に紹介しよう。
それは、水谷緑著『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記』(文藝春秋、2022年)。
主人公はゆい。小学生の頃から料理や洗濯、食材や日用品の買い出しなどの家事を一手に担っている。そんなゆいの母親は統合失調症。ゆいが2歳の時に発症し、物心ついた時から長女のゆいが家事をするのが日常だった。
母親は不安定で、ゆいに包丁を向けることもあれば、家に盗聴器が仕掛けられていると騒ぐこともある。夫の浮気を疑い、確認のためにゆいを夫の会社に行かせることさえある。
そんな妻に疲れ果てている父親は、一種の思考停止状態に陥っている。一方、弟は当然のように家事を免除され、十分に勉強する時間が与えられている。