学歴が高いほうが偉い、モテるほうが偉い、きれいなほうが上位――という、いつからか空気のように私たちのまわりに漂っている価値観を名づけ、異を唱えた。
「主流秩序とは、永遠の競争のしんどさを説明する言葉で、社会が見える眼鏡なんですよね。美についてだと、みんなが整形して美人になったとしても、その中でまた差がついていく。労働の問題だと、座席が10個しかなくて、正規雇用の椅子が6個で非正規雇用の椅子が4個。あなたが6個のほうに行ったら、誰かが4個のほうに行く。それをそのままにして正社員になって、自分は加担していないの? って問いですね。
そういう、この社会で人間を序列化させて、競争に追い立てる装置が主流秩序という概念なんです。今の日本社会の集団催眠状態を、浮き彫りにするための装置というか。
この主流秩序が生きづらい女性に役立つのは、『女子力を高めてキレイになってモテる』っていう『女子の幸せ』以外の道でいい、と思えるようになる視点です。フェミニズムでは、それを『ジェンダーフリー』と言います。主流秩序って、それに囚われてるあなたでいいの? っていう問いかけなんです。キレイになったり、モテたり、ええ人と結婚したり、ええ会社に入ったり、そういう序列の上昇の幸せ感でいいの? って」
そんな主流秩序の背景にあるのは、資本主義のシステムだとイダ氏は指摘する。
「誰か上の人が考えて押しつけたというよりは、自然発生的にできてきて、日々の行動で強化される。主流秩序の一番の中心は、やっぱりお金だと思うんですよね。お金があるほうがいいという幻想。これは依存症なのに依存症と気づいてないわけですよ。お酒だとあまりにも飲み過ぎて生活壊れたら依存症やと言われるけど、お金への執着はもうみんなあまりにも持ってるから、お金のためなら人も殺す。企業の不正もやる。
僕、大学辞めたでしょう。みんなももっとね、辞めればいいと思うんですよ。少なくとも月のうち何日かはタダのおっさんになり、無名になり無償でおらなあかんと思う。『オレの時間は貴重』なんて思う人には、家事なんかできないんですよ」
ずっとずっと、「上を目指せ」と言われてきた。
子どもの頃は親や先生から。大人になってからは、仕事相手や友人から。それだけじゃない。メディアの中には「上昇志向」を持つ人が溢れ、「今のままでいい」などと言おうものなら「ダメ」の烙印を押されかねない。だけど、「永遠の競争」にほとほと疲れ果てているのもまた事実だ。別に人を蹴落としたくないし、「美」で競うとか無理だし、「いい結婚」とか「いい恋愛」とか人にとやかく言われるものじゃないし。だけど世の中には「仕事でもプライベートでも輝いている人間が一番幸せ」という幻想が溢れていて、なんだかいつも足りなくて急かされて焦らされている。
だけど、そんなこと、しなくていいんじゃない? みんなが信じてる「序列」に異議を唱えて、「それって主流秩序だよ? そんなくだらない物差しで人を値踏みするな」って言ってもいいんじゃない?
イダ氏と話して、そんなふうに思ったのだった。
一時は大学助教授まで上り詰めたイダ氏の人生の転機には、ある「マトモなインテリ」の実践もあったようだ。それは、キリスト教界のエリート。そのまま行けば「偉いさん」になれたというある神父は、日本有数のドヤ街・釜ヶ崎(現在の大阪市西成区)に入り、貧しい人々とともに肉体労働をしたという。貧しい人々にどう向き合うか、そこで自分が試される。自分は炊き出しなどをして施す側だと思っていたけれど、聖書を研究すると、キリストは「並ぶ側」だった――。その神父はそう言ったそうだ。
「賢いが故に現実を見て、奈落側に行かなあかんと。もっとも無名でね。その感覚はすごいと思うし、だから僕なんかもまだまだやけど、だんだん僕も無名になってきてるので、もっと無名になって、ただのおっさんになって、誰にも知られずに自由に生きると。死ぬまで勝ち組で行ける人って、ほんの一部ですからね」
目標が、もっと無名になること。
主流秩序への異を唱えるイダ氏自身が本気でそこから外れた生き方をしていて、だけどイダ氏はいつも肩の力が抜けていて楽しそうなのが、一番の説得力となっていた。
私が、そして多くの人が縛られていたものって、なんの根拠もないものだったんだな。
この日私は、主流秩序の囚われから解放されることを、「自分なりの幸せの尺度を見つけること」と定義づけたのだった。そっちのほうが、絶対楽しい。
次回は4月6日(木)の予定です。
幸せの尺度ってなんだろう?
(作家、活動家)
2017/03/02