母が何気なく自分の意見を述べたところ、それが親戚のおじさんの逆鱗に触れ、「女のくせに政治の話に入ってくるなど生意気だ!」と激怒されたという。その時、母は「もう二度と政治についての意見は口にしない」と決めたそうだ。実際、母が政治の話をしているのを見たことはほぼない。少なくとも、男性の前では決して口にしない。母は黙っていたのではない。黙らされてきたのだ。
そうしてゆっくりと時間をかけて、母にとって「沈黙」は当たり前のものとなった。一度そうなってしまったら、言葉を取り戻すことは至難の業だ。
10代の頃、「世間体」ばかり持ち出す母と対立した背景には、そのような「母・女に強いられる理不尽」への、身悶えしたくなるような怒りがあった。あの頃はうまく言葉にできなかったけれど、結局、私は「どうして一緒に怒ってくれないの」と地団駄を踏んでいたのだ。
どうしてお母さんは女なのに、オッサンの代弁者のふりをするの、と。どうして自分もおかしいと思うって、疑問だけでも口にしてくれないの、と。母を見ていると、女という存在の不甲斐なさ、その立場の理不尽さに、自分の近い未来を想像してやりきれなくなった。そしてそれに抵抗しない母に苛立った。
そんなふうに、一番身近な同性である母の絶望と諦めはしっかりと私に受け継がれ、私も長いこと口をつぐんでいた。男社会を脅かさず、いろんなことを適度に諦める態度をとることは、いつからか自然にできるようになっていた。それが「大人になる」ことだと思っていた。
だけど、それは違うのだ。
私には子どもはいないけれど、次の世代に伝えるべきは「女だから仕方ない」ではなく、冒頭のスピーチのように、女だからって諦めなくてもいい、自分で自分の人生を切り開いていいってことなのだ。この国の女が我慢し、忍耐に忍耐を重ね、それでもいつかわかってくれると期待しながら待ち続けた果てに、東京医大の「女は一律減点」がある。
「我慢していればいつかわかってくれる」なんて大間違いだ。男社会は女の「沈黙」を「容認」と捉え、結局、女が我慢すればするほど増長し続けてきた。
今、「女はこうあるべき」という昭和・平成の呪いから、多くの女性たちは解放されつつある。諦めを再生産しないことが、少なくとも自分の世代の義務だと思うのだ。
次回は10月3日(水)の予定です。