一時保護が解除された後は、親戚宅に身を寄せた。そこから通信制高校で学ぶ。勉強自体は好きだったので、1年分のレポートを1週間くらいで終わらせたという。精神科に入院することもあったが、勉強の甲斐あり、無事に大学に合格。
「独学ですごい!」と思わず口にすると、「とりあえず、普通の18歳になりたかったんです」と彼女は言った。その願いは叶(かな)い、大学では友人にも恵まれ「普通の女子大生」のような時間も持てたようだ。
「学生寮に入って、それまでずっと友達いなかったのが初めてできて、『みんなでご飯行こう』とか、ものすごく楽しくて嬉しかったです」
しかし、生活は苦しかった。父親に「生活費は出さないが学費は出す」と言われていたものの、2年生から学費の支払いは止まってしまう。奨学金とバイトでやりくりするようになるが、それは過酷な日々だった。月〜金は大学に行き、休みの日は警備のバイト。朝の4時から夜中12時まで拘束されることもあった。警備だけでは足りない時は工場で働いた。月のバイト代は7万円くらい。「1日でも休めばピンチ」という状態が続いたという。
そんな自転車操業の日々を襲ったのがコロナ禍だった。警備の仕事はぱったりなくなり、大学の授業もすべてオンラインに。4年生では2回しか登校せずに卒業となってしまった。
が、何よりも大変だったのは、住まいの確保だ。
家賃が高い学生寮にい続けることはできず、出ることになった。しかし、ギリギリの生活だったので部屋を借りるお金などない。学費も出してくれない父親に経済的に頼ることもできないし、当然、実家に戻る選択肢などない。
「だったら生活保護を受ければいい」という人もいるかもしれない。が、大学生が生活保護を使うには、休学か退学しなければならないという厳しいルールがあるのだ(夜間大学はOK)。
結局、給付型の奨学金を受けられることになり、また、たまたま見つけた民間のシェルターに住むことができたものの、ずっといられるわけではなく期限が来てしまう。再び住まいを失ったのは、2020年4月、初めて緊急事態宣言が出る直前。コロナでバイト先を見つけるのも至難のわざという時期だった。
行き場がない彼女が見つけたのが、自立援助ホームだった。自立援助ホームとは、何らかの理由で家庭にいられなくなった15〜20歳(場合によっては22歳)の子どもたちがいられる施設。が、その施設はいっぱいで入ることはできなかった。しかし、支援者の好意で住む場所が与えられることに。そこで大学卒業を迎えたという。
ただ、そこもずっといられるわけではない。大学を出る3月には出なくてはいけないことになり、卒業と同時にまたしても住む場所を失ってしまう。近年、児童養護施設出身の若者を支援する取り組みなどもあるが、彼女は養護施設には行っていないので対象外。制度の穴に落ち込むようにして、支援の網からこぼれ落ちてしまう。
話を聞きながら、「虐待」と一言で語られるものの現実を、まざまざと突きつけられる気がした。
多くの人が「虐待」という言葉で思い浮かべるのは、船戸結愛ちゃんのような幼い子どもの痛ましい死ではないだろうか。しかし、亡くなる子どもが報道される一方で、この国にはその何倍もの「生き残った子ども」たちがいる。その「元子ども」たちは、トラウマを抱えてその後の人生を生きていかなくてはならない。
それだけではない。「親に頼れない」というハンディを抱えた中、格差社会をサバイブしなければならないのだ。
「もし自分だったら」と考えてほしい。20歳そこそこで、親に頼れずに自立などできただろうか。
私自身のことで言えば、高校を出て美大の予備校に入るために北海道から上京した18歳から物書きとしてデビューする25歳の7年間は、もっとも親に迷惑と経済的負担をかけた時期だった。予備校時代は学費を払ってもらった上に仕送りしてもらっていた。進学を諦めフリーターとなってからは、バイト代だけでは足りず、家賃を滞納したり電気やガスが止まるたびにお金をせびっていた。あの時期、親に頼れなかったら。私はいろんなことを諦めて、失意の中、実家に帰っていただろう。
しかし、虐待で親から逃げ続けている「元子ども」たちには、帰れる実家もないのだ。
せめてリカさんが住む場所や学費に困らず安心して学べる制度があったらと思うのは、私だけでないだろう。
さて、そんな時期に出会ったのが、前回の本連載「DVを経験した彼女が、加害者更生と女性支援を続ける理由」にも登場して頂いた吉祥眞佐緒(よしざきまさお)さんだ。彼女の支援を受け、現在は生活保護を利用しながらシェアハウスで暮らしている。やっと「いつまでここにいられるのか」を心配せず、落ち着いて過ごせる日々がやってきたのだ。
そんな彼女にとって大きな心配は、「母親に居場所がばれないか」ということだ。親から逃げているすべての人にとって切実な問題だろう。