最近、複数の団塊世代とそんなテーマで話す機会があったのだが、返ってきたのは「日本経済が右肩上がりだったから」というものだ。
明日は今日より良くなる。未来は今よりきっと良くなる。そんな確信を、彼らは若かりし日々から壮年期に至るまで共有していたというのだ。特に1960年には池田勇人内閣が「10年間で所得を2倍にする」という「所得倍増計画」をぶち上げ、10年後には本当に一人あたりの消費支出が2.3倍に拡大。30年間賃金が上がらない「失われた30年」と社会人生活がほぼかぶっている団塊ジュニアには、想像もつかない世界を生きてきたのである。
そんな高度経済成長の右肩上がりと人生が完全に一致したとしたら。
それはマジョリティ男性にとって、生きづらさを極限まで感じずに済む世界ではないだろうか。もちろんそれは「24時間戦えますか」的な世界で、企業社会になじまない人間にとっては地獄だったろう。が、雇用の安定が人生の安定につながるという面では「ザ・盤石」な世界である。
なぜなら、男性であれば正規職が当然。ちなみに60年の生涯未婚率は男性1.26%、女性1.87%。75年で男性2.12%、女性4.32%と一億総結婚の時代である。定職さえあれば、なかば自動的に結婚や子ども、ローンを組んだ家などがついてきたと言えるだろう。実際、親世代の多くはそれを手に入れている。レールから外れるとキツいが、レールにさえ乗ってしまえばおそらくいろいろと悩まなくてよかった時代。
その上、給料もどんどん上がっていく。「ニッポンすごい」なんてメディアが煽らなくとも、「ジャパンアズナンバーワン」なんて言われていた頃。
それでは、団塊ジュニアとそれより下の世代はどうか。
ロスジェネでもある私の子ども時代はバブル。が、自分が社会に出る直前にもろくも崩壊。少し上の世代が「超売り手市場」と言われる中、企業社会に歓迎される姿を見ていたのに、自分たちの番が来た途端、扉は突然閉ざされた。そうして「100社落ちる」なんてことが当たり前の世界線に放り出されたのだ。同時にバイトの時給は下がり、不況はどんどん深刻になり、98年には年間自殺者が3万人を突破。
気がつけば世の中は「格差社会」なんて呼ばれるようになっていて、それは「どんなに頑張っても絶対に報われない層」を膨大に生み出した。その背景にあるのは、労働者派遣法の改正による不安定雇用の拡大だ。雇用の調整弁となった非正規は使い捨てられるのが当たり前になっていく。雇用が細切れだと、当然、「結婚」に二の足を踏む人々が増えることになる。
「所得倍増」どころか給与の低下も著しい。経済財政諮問会議の調査結果によると、1994年と2019年の世帯所得の中央値を比較したところ、35歳から44歳では104万円減少、45歳から54歳ではその倍近くの184万円も減っていたという。
そんな「失われた30年」で辛酸を舐め続け、あと少しで50代を迎えようとしているのが団塊世代を親に持つ人が多いロスジェネだ。
気がつけば自分が20歳くらいの頃の親の年齢に迫りつつあるのに、親がその時手にしていたものを私自身、何ひとつ手にしていない。結婚や子ども、ローンを組んだ家などだ。50代を目前にしても、「一人前」を満たす記号を手に入れられない人が多い世代。
そんなロスジェネの胸の奥にあるのは、大きな剥奪感だ。さまざまな機会を、チャンスを奪われたという思い。
それだけではない。「受け入れられなかった」という痛みも抱えている。特に同世代男性の中にはこれをこじらせている人も少なくない。社会に出る時、企業から受け入れてもらえなかった。それ以降、非正規で働いてもどこにも受け皿を見つけられなかった。そこに「ずっと彼女なし」が加わると、異性からも受け入れてもらえなかったというストーリーができあがる。最近、22年7月に39歳で死刑が執行された加藤智大(秋葉原無差別殺傷事件で逮捕)について執筆しているのだが、あの事件の背景にも、そんな剥奪感がちらついて仕方ない。
一方で、「勝ち組ロスジェネ」も、ナチュラルな自己肯定感とはほど遠い。なぜなら、勝ち残る過程で筆舌に尽くしがたい苦労をしているからだ。屈辱の中、歯を食いしばって勝ち上がってきた彼らは強烈な自己責任論者であるものの、努力をやめたら今の立場を失ってしまうという恐怖感に常に駆られている。
さて、ここまで書いてきて、年配男性に関する長年の謎が少し、解けた気がする。
常々私は、彼らの「自分はイケてる」と思ってそうな言動が不思議で仕方なかった。例えば年配男性のセクハラには「本人はガチ恋」というパターンが少なくない。既婚男性のおじさんが、部下や取引先などの若年女性に本気で恋し、相手は力関係ゆえ無下(むげ)にもできず、それを「向こうも気がある」と勘違いしてエスカレート、というケースだ。
しかし、もし自分が年配男性だったとしたら、「自分なんかが好きになったら気持ち悪がられるだけだろう」と思うはずだ。というか、「若い女」時代から今に至るまで、誰かを好きになるたびに——それが「推し」であっても——「私のような人間があの人を好きになって申し訳ない」とどこかで思ってきた。この感覚、同世代とそれより下には性別問わず、なんとなくご理解頂けるのではないか。しかし、ナチュラルに世界に「受け入れられる」経験を積んできた彼らは拒絶されることなど想定もしていないのかもしれない。「俺が口説いたら俺のことを好きになるはず」というのは成功体験がないと到底思えないことで、彼らの自己肯定感は経験と経済成長に底上げされてきたのだろう。同時に相手が振り向かなかったとしても、「女ごときに」否定されたくらいでぐらつかないほどの男尊女卑と自信も持ち合わせているっぽい。もちろん、これはあくまで一部年配男性の話だ。