では、橋田氏はなぜ安楽死について考えるようになったのか。上野氏に聞かれて語った言葉に驚愕した。
「仕事が減ったから。仕事がなくなったら、生きていてもしょうがないですよ」
対談当時、橋田氏は94歳。その年まで現役で、第一線で活躍してきたこと自体が奇跡なのに、まだ仕事を求めているのである。そしてどうやら仕事がない自分には「価値がない」くらいまで思い詰めているようなのである。
なんだか目の前が暗くなる気がした。仕事がない、減ったくらいでそこまで思うなら、世の中、安楽死予備軍だらけではないか。私だってその一人だ。橋田氏は自分に非常に厳しい人なのだと思うが、その厳しさは、他者に対しては時に意図せずとも刃になり得てしまう。
一方で、この社会が高齢者に「お荷物」にならないことを求めているのも厳然たる事実だ。そんな中、橋田氏はその無理ゲーを本当に必死で攻略してきたのだと思う。それだけではない。「こうあらねば」という、自らに対する理想像を非常に高く掲げてきたのだろう。
例えば対談で橋田氏は、「病気になって脚が動かなくなり、人の世話にならなくてはいけなくなったら、やっぱり生きていたくない」と語る。車いすにも抵抗があるようで、「とにかく、車いすなんてイヤだわ。自分の脚で歩けないなんて」とも語る。
しかし、対談の中で、橋田氏が好きなクルーズ船には車いすの人もいたこと、船の中でのリハビリで歩けるようになった乗客もいたことを思い出す。上野氏に「ほら、車いすでもクルーズを楽しめそうじゃないですか」と言われると、「じゃあ車いすはよしとして、トイレの介助は絶対にイヤ」と言う。
とにかく自立が一番で、人の世話になりたくなくて、下の世話なんて真っ平御免で仕事が減ったりなくなったりしたら生きる意味などない――。この価値観は別に橋田氏だけでなく、特に昭和の男性が強く内面化しているものではないだろうか。
しかし、誰もがいつかは老いて、程度の差はあれ他人の世話になる時がくるのだ。そのことに、90代でも抵抗する橋田氏。
一方、大正14年生まれの橋田氏の中には、確実にその世代の「女」も存在する。
例えば60歳で亡くなった橋田氏の夫は、彼女と結婚するにあたって「自分が家にいる時は仕事をしないでくれ」と言ったそうだ。この言葉には仰天だが、橋田氏はあれだけの仕事をこなしながら、「夫の前では仕事をしない」を貫いたのだそうだからさらに仰天だ。バリバリ仕事をこなしつつ、男を立てて「妻」もこなした橋田氏。その完璧主義と自らへの厳しさが「安楽死」願望になっていったのだろうか。
が、自分への厳しさは、それをそのまま口にするとやはり他者を傷つけてしまうこともある。例えば車いすなんて、トイレの介助なんて絶対に嫌という言葉は、その立場の人を傷つける可能性がある。それは直訳すれば「あんなになってまで生きたくない」ということだからだ。誰もが悪気もなく口に出してしまいがちな言葉だが、それが自分に向けられたらどうだろう。これほど存在を否定される言葉はないのではないだろうか。
もうひとつ、この対談で驚いたのは、介護の仕事をする人に対しての橋田氏の言葉。
「だって皆さん、イヤイヤ介護をしているわけでしょう?」というものだ。
これに対して上野氏は、「介護職の方は、お給料が少ないことに関しては不満を持っています。でも皆さん、仕事には誇りを持っているし、仕事がお好きですよ」と答えているのだが、「イヤイヤやっている」という言葉にちょっと驚いた。もちろん、介護の仕事は綺麗事では片付けられないわけだが、考えてみれば、橋田氏は介護保険なき時代を生きた世代。「嫁」が舅や姑の介護にどれほど苦労したかを知っているからこそ出た言葉なのかもしれない。
それにしても、90代の人気脚本家が「仕事がなくなった」くらいで安楽死を望む社会はなんなのだろう(しかもおそらく貯金は山ほどあるのだ)。
しかし、植松の主張ほど荒唐無稽でなくとも、世の中には、「利益を生み出さないやつには価値がない」といった価値観が溢れてもいる。ともすれば私自身もそんな価値観に飲み込まれそうになる。が、17年ほど前、「無条件の生存の肯定」を掲げるプレカリアート運動(プレカリアートは不安定なプロレタリアートという造語。市場原理主義のもと不安定さに晒される非正規などの人々が「生きさせろ!」と主張する運動全般を指す)に関わり始めたことで大きく変わった。
この運動は一言で言うと、役に立たなくても、働けなくても利益を生み出せなくても生存は無条件に肯定されるんだ文句あんのかコノヤローというものである。
よって私の周りには、かなり役に立っていない人たちが溢れているのだが、彼ら彼女らは「こんなぼったくり資本主義の役に立ってたまるか!」というスタンスで生きているので「役に立たない」自分を気に病むことなどない。また、「より役に立たず、より稼いでない方がすごい」みたいな価値観なので、月収数万円くらいの「最低限生きられるギリギリ」分くらいしか働かない人も多くいる。
そんな人たちの中にいると、「頑張って稼いで日本経済の役に立って納税しよう」なんて気持ちは瞬時に消え失せ、「仕事なくなったくらいで安楽死」なんて言葉を鼻で笑えるくらいになってくる。
が、そこまで達するには、「貧乏でも愉快に生きてる人たちのコミュニティー」みたいなものが不可欠で、そんなものはなかなか手に入るものではない。
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