雨宮 障害者ヘイトや生活保護バッシングなどもひどいですね。「公的ケアを利用している」人への目線が本当に厳しい。
伊藤 さきほど(前編)お話しした「投資家目線」に立つと、自分たちは正業では低賃金でも、投資で稼いで自分で自分を助けている、という感覚だから、「それをやらない人たち」を叩きたくなるんだと思います。社会の中に、社会保障で誰かを助けるということ自体への敵意が存在しているんですね。
雨宮 自分で投資する努力もせずに、税金で賄われている福祉だけ利用しやがって、甘えるな、というマインドですね。たしかに、今の日本はとにかく自己責任で勝ち抜いてください、それができない人はのたれ死んでください、という社会になっているわけで、公的ケアの対象となる人へのヘイトが出てくるのもある意味で当然といえるかもしれません。
伊藤 もともと、日本の社会保障はそれなりに充実していたとはいえ高齢者などへの保障が中心で、現役世代への保障は抜け落ちている部分がありました。多くの先進国では一般的な、住居費への公的補助がないことなどがその一例です。かつてはそれを補っていたのが企業の福利厚生であり、安定した日本型雇用慣行だったわけですが、雇用の自由化によってそこから放り出される人が増えたことで、障害者でも高齢者でもない「ふわっとした弱者」というべき存在が大量に発生してきた。リベラルが、その人たちを救うための方法論を提示してこなかった結果が、リベラル批判が強まる今の状況につながっているんだと思います。
リベラルは「不寛容」なのか
雨宮 「リベラルは嫌い」だという周りの人たちの話を聞いていると、よく「リベラルは不寛容で怖いから」というんですね。ひとつでも間違ったことを言うとすぐに攻撃されて、つるし上げられそう、と。たしかにSNSなどを見ていると、あちこちでリベラル同士の対立や衝突が起こっていて、そういうイメージを持つのも分かる気がします。
一方で、私は1990年代後半に、2年くらい右翼団体に所属していたんですけど、そこで出会った右翼の人たちってめちゃくちゃ優しかったんです。仲間の間でもめ事があれば、誰かが一升瓶持って駆けつけて「まあまあ」と酒を飲ませて仲直りさせる、という世界です。それをしないという選択肢がない。
だから、リベラルの人たちがSNSなどで、少し意見が違う人、失言をした人に対してすぐに関係を切ってしまったり、「一升瓶をかついで仲介に行く」人もなかなか見当たらないのを見ていると、すごく冷たく感じることがあります。
伊藤 たしかに、昔の右翼というのは今のいわゆる「ネトウヨ」とはまったく別物で、どんな人のことも包摂するというところがありましたよね。
雨宮 本当に、包容力はむちゃくちゃありました。
伊藤 日本の右翼の源流には、国の基礎は農業にこそあるとする「農本主義」があります。左派が都市の工場労働者とは連帯しても、地方の農民と連帯するという発想があまりなかったときに、右翼はそれをやっていたわけです。「弱い人たちを包摂する」のは、まさに右翼の伝統ともいえるかもしれません。
雨宮 はい。外から見ると怖いですが、中はすごく居心地がいい。とにかく誰でも来なさい、来た人は面倒見るよ、という感じでした。
伊藤 一方でリベラルはどうか。「リベラル」という言葉は90年代半ば、それまでの「革新」を言い換える形で使われるようになりました。本来はもう少し広い意味合いのある言葉ですが、日本ではほぼ「左派」と同じ意味で使われてきたと言っていいと思います。
ただ、この「左派」にもいろいろあって……今「リベラル」と言ったときにイメージされるのはおそらく、市民主義的な左派だと思います。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などがその源流でしょうが、そこから80年代になって、従来の左派のように世界革命を目指すのではなく、自分たちの町でリサイクルやボランティアなど小さな市民運動を展開していこうとする人たちが出てきたんですね。その時期と、リベラルという言葉が定着していった時期が重なっていたために、リベラルといえば市民主義的、社会民主主義的で寛容な左派、というイメージができてきたんだと思います。
ただ、実際には左派の中には、旧来の共産党や社会党に代表される旧左翼、そして50年代終わりから出てきて過激な学生運動を繰り広げた新左翼といった流れもあって、もともとはそちらが主流だったわけです。特に新左翼は70年代以降も反差別運動なんかを展開していましたが、あちこちで「糾弾」があったりと、かなり過激で「不寛容」な運動でした。そうしたマインドが、今のリベラルといわれる人たちの中にも流れ込んでいるのかも、と思ったりします。
雨宮 「リベラルは寛容なはずなのに不寛容」だというのが、リベラルを嫌う人たちの主張のひとつですが、その「リベラルは寛容なはず」自体が、単なる勘違いだったんでしょうか。
伊藤 勘違いというか、少なくともそんなに長い歴史のある話ではないですよね。
また、文化的な意味での左派というのは本来、「統制を弱める」方向に行くはずなんです。自国中心主義や男性中心主義といった硬直した考え方を押しつけるのではなく、多様な考え方を認めるということですね。ところが、今のリベラルは「こうでなくちゃダメだ」「こんなことを言うやつとは連帯できない」というふうに、統制を強める方向に行っているように見えます。そこに対して違和感を持っている人は少なくないし、それが「リベラルへの反発」が強まっている背景の一つではあるんじゃないかと思います。
リベラルが果たすべき役割は
雨宮 さて、ここまで「冷笑系」が支持を集めるのはなぜか、「リベラル」が嫌われるのはなぜか、について考えてきたわけですが、そうした状況を変えていくにはどうすればいいのでしょう。どうお考えですか?
伊藤 私は、やはりリベラルがもう一度ちゃんと「貧困」の問題に取り組むことが重要だと考えています。
先ほども触れたように、2000年代にはリベラルによる貧困問題への取り組みが一時期盛り上がりました。あの時期には、リベラルに対して反発する人はそれほど多くなかったはずなんです。その、開花しかけたはずの「本当のリベラル」を取り戻す必要があるんじゃないでしょうか。
雨宮 同感です。もちろん、リベラルが差別やフェミニズムの問題に取り組むことは非常に重要ですが、貧困問題が注目された時、私は右翼の人たちからも「君は真の愛国者だ」って応援してもらいました。思想とかはまったく関係ないテーマなんですよね。
伊藤 しかも、当時の貧困は「ホームレス」状態の若者が急増したといわれたように、「目立つ」形の貧困でしたよね。それが今は「目立たない」形へと変化している。
雨宮 はい。家賃が払えなくてネットカフェで生活してるけど、見た目じゃその人がお金に困っているなんて全然分からない、という人がたくさんいます。