もっと凄まじい否定もある。例えばSNS社会になってから散見されるのは、誰かを「レイシスト」「差別主義者」「加害者」と叩き、排除するような動きだ。もちろん、そのような批判が必要なケースもあるだろう。が、中には「そこまで?」と思うケースもあったりする。リベラルが「怖い」と言われるのはこのようなこともあるのだろう。
排除という点では、やはりSNS社会以降、「気に食わないものはこの世から消えてほしい」という欲望を隠さない人も増えた。評論家の與那覇潤さんは、京アニ事件に関する朝日新聞のインタビュー記事「『除菌志向』進む日本 『無敵の人』を『無敵』でなくすのは相互接触」(朝日新聞デジタル、2024年1月24日)で以下のように語っている。
〈平成の後半から、日本では「社会のデオドラント化」が進んだと感じています。ネガティブなものは、そもそもこの世に存在しないでほしい。少しでもにおったらスプレーをかけるように「除菌」しようとする傾向が強まりました。同じ時期に普及したSNSは典型です。気に入らない言動や表現を見たとき、「みんなでたたいて、世の中から消してしまおう」とあおる人が増えました〉
もちろん、なんらかの加害者などが公の場に出るなという声があるのは当然だと思う。
一方で、自分と意見が違う人間を「消そう」とする振る舞いも多く見られる。與那覇氏は、以下のようにも語る。
〈かつてリベラル派と呼ばれる人たちは、異分子と共存していくことを説いたはずなのに、今は、敵視する相手の排除に率先して走る動きばかりが目立ちます〉
と、ここまで書いて、自分が左派的な人に関わり始めた約20年前って、全然そんな空気じゃなかったことを思い出した。
それは私が入った界隈によるのかもしれない。06年、フリーター労組という、不安定層が作った労働組合のメーデーがきっかけでこっちの世界に足を踏み入れた私にとって、そこは不寛容でも説教臭い場所でもないどころか、そもそも真面目な人など皆無。ひたすら行儀が悪い人たちの、自由な空気の場所だった。
いわゆる「王道リベラル」じゃなかったからだろうか。多くが当時20〜30代で、フリーターやフリーランスや無職などの不安定層が大半だった。「だめ連」関係の人や東京・高円寺の貧乏で愉快な人々の集団「素人の乱」の人たちも多く、差別などは批判するものの、今思うと随分アナキスト寄りでもあった。
そんな人たちと「生きさせろ!」「貧乏人は人の言うことを聞かないぞ!」とデモをすれば、どこからかワインなどの酒瓶が回ってくる。当時のデモは「路上パーティー」という意味合いも強く、自分たちの手作りの祭りとしてただひたすらに祝祭的なものだった。
それがいつからか、そんな「自由な空気」は忌避されるものになっていった (今でも高円寺系など一部には残存)。
これは個人的な印象だが、ひとつのきっかけは東日本大震災ではないだろうか。
「レベル7の最悪の原発事故」を前にしてガチの「脱原発デモ」が開催されるようになり、運動が本気モード・真面目モードになったのだ。
同時に、SNSの台頭によって、「デモなどが世間からどう見られるか」が重要視され、「不適切」とされるような行動は批判を浴びるようにもなってきたこともあるだろう。
が、もっと前に遡れば、リベラルはくそ真面目でもなんでもなく、私にとっては随分「無神経」に思えるものだった時代もある。すっかり忘れていたけど、それは1990年代。
この頃は女子高生の援助交際やブルセラショップが流行し、大きな注目を集めていたわけだが、いわゆるリベラルの中にはこれらに寛容な言説もあった。また同時期、女性の人権を踏みにじるような「鬼畜系AV」がカウンターカルチャーのような扱いを受け、一部のリベラル系知識人と言われる人々に賞賛されていたりしてもいた。その一方で、一部の右翼団体が「日本人男性の海外買春」や「ブルセラブーム」を「堕落」とみなして批判するという光景が広がっていた。
あくまで私から見えていた当時の光景だが、わずか30年前を振り返ればそんな状況だったのに、一体いつから、何があって今のように変わったのだろう? 冷笑系やヘイトデモの台頭などが断片的に思い浮かぶが、この辺を整理してる原稿とかってあるのだろうか?
さて、そんな90年代とは隔世の感がある今のリベラルについて、小説家・中村文則氏が朝日新聞に寄せた原稿「断絶のS字社会、蛇は何思う リベラルへ優しく誘う、私達の脱皮は」(朝日新聞デジタル、2025年1月10日)が非常に興味深かった。
〈いわゆる人権や多様性を重んじる立場をリベラルとするなら、これからは「新リベラル」みたいなものに変身(?)する必要があるかもしれない、と自分を含めて思う〉から始まる文章には、中村氏の「アメリカの知人」のエピソードが綴られる。
芸術作品を売るエージェントを始めたという知人が知り合いの男性の作品を売り込み先に紹介したところ、なぜ男性作品だけ扱うのか、男性だけ扱うことは評価できないなどと言われたのだという。それを受けて、中村氏は書く。
〈男女の機会均等は当然だ。でもここまで厳しいと、大学の友人同士で始めたばかりのベンチャー企業に、社員が男性だけだから契約しない、と言うに等しいかもしれない。知人はリベラルな人だが怒っていた。(中略)僕は彼の様子を見ながら、妙な予感がした。アメリカの選挙は、もしかしたらトランプ氏が勝つかもしれないと〉
そしてその予感は当たったわけである。