私は驚いた。ヴィジュアル系にこんなに親切にしてもらったのは初めてだったからだ。そうしてYouTubeで気になったバンドがあれば、行ける限り行くようになった。そう、90年代バンギャの私は多くの解散、活動休止、そしてメンバーの死を経験している。バンドはナマ物、「推しは推せるうちに推せ」(当時、この言葉はなかったと記憶しているがまさにそんな思いだった)という使命感が私を奮い立たせたのだ。この頃、まだ対バンでイベント出演をしていたゴールデンボンバーのライヴに行ったのは一生の自慢である。
それにしても、なぜ、「ヴィジュアル系」という言葉が90年代、あれほど嫌がられたのだろう?
私をはじめバンギャ側はその言葉を積極的に使っていたものの、メンバー側はやはり、あまり使っていなかった。「見た目だけ」「女・子ども向け」といったニュアンスが色濃かったのだろうと思う。
特に「女・子ども向け」という言葉は表現者の心を折るに十分な破壊力を持っている。ヴィジュアル系に限らず、あらゆる表現物――例えば映画や小説――が「女・子ども」向けと評される時、それはこれ以上ないくらいの侮蔑だからだ。
しかし、「女」「子ども」という属性に好かれるという事実が侮辱になるって、そもそも「女」「子ども」に相当失礼な話ではないか。
なぜなら人類の半分は女だし、誰もが子ども時代を経ているのである。それなのに、「本物を見極める力がない」「未熟」「ミーハー」といったものと同義になっている「女」と「子ども」。
翻って、その反対の言葉といえば「男」「老人」だ。
この言葉から連想されるのはどんなことだろう? 私の頭には利権とか汚職まみれの政治家とか戦争とか、そういう忌まわしいものばかりが浮かぶ。が、「女・子ども向け」という言葉はあるのに「男・老人向け」という言い方はされない。なぜなら、世の中がそっちを基準に作られているからだろう。だからこそ育児中の女は社会から居場所を奪われるし(まさに女・子どもが排除される)、権力が集中するのは高齢の男性だ。そんな「男・老人」というキーワードのイメージキャラクターとして脳内に浮かぶのは、森喜朗氏。元内閣総理大臣である。
と、23年も終わりに近づいた頃に届いた2人の訃報から我がバンギャ人生を振り返ったら「女・子ども」への迫害にまで辿り着いたのだが、二大巨頭のメンバーの立て続けの死に、いまだ茫然自失の状態である。
が、私はこれからも、ずっとずっとBUCK−TICKとX JAPANを聞き続けるし、ヴィジュアル系を愛し続けるだろう。
あっちゃんとHEATHの冥福を、心から祈ります。