映画はこの疑問を深掘りするドキュメンタリーなのだが、長男の記憶や目撃証言への反証、そして当時の科学鑑定へ異議を唱える専門家の声を紹介する内容となっており、観終えた人の多くが「冤罪では」と口にする。
私の胸にもその言葉が去来しているのだが、忘れられないのは、この映画を観る前、メディアの人々と交わした言葉だ。
「こういう映画が公開されるんだってよ」という雑談から始まったのだが、話した中には、新人時代にあの事件の報道に関わっていた、あるいは同僚がまさに取材していたという人もいた。そんな人々が当時を振り返りつつ語ったのは、事件当時の「空気」の異常さだ。
とにかく「あいつが犯人だ」という強固な決めつけ。時間が経てば経つほどそれは既成事実のようになり、誰も異論など挟めないような空気が熟成されていったというのだ。
そうして連日のように報道陣にホースで水をかける彼女の姿が報じられ、「保険金詐欺をしていた毒婦」のイメージは世論の形成や警察の捜査、そして司法にさえも重大な影響を与えた。その結果、彼女には死刑が確定した。
「あいつが犯人だ」「あいつが悪だ」となると一方向に一斉に走りだし、メディアも司法もその暴走をさらに煽り、一人の人間が死刑台に立たされる――。
彼女が本当にシロなのか、それとも違うのか、私にはわからない。
しかし、あの映画を観た周りの何人かは「小山田圭吾の炎上を思い出した」とも語った。
唐突だが、もし、これから戦争が始まるとしたら、こんなふうに、SNSを使って誰か/何かが糾弾されるような形で、一見それとは関係ない様相で始まるのかもしれないと思う。「あいつは我々の敵だ」といった形でレッテルが貼られ、みんなが「正義感」で暴走する。ある知人は『小山田圭吾 炎上の「嘘」』を読み、「新しい戦前」という言葉を思い出したそうだ。
みんなが一方向に走り出した時、立ち止まるのは勇気がいる。異議を唱えるのは勇気がいる。
だけど、私は立ち止まる一人でありたい。そんな思いを、改めて強くしている。