三省堂の大辞林には、以下のような説明がある。
「サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。動物社会における順位確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して、攻撃を抑止したり社会的関係を調停したりする。馬乗り行為」
ところで人間社会でも、特に女同士でよく行われている「私の方が上ですけど?」合戦というのがある。これを「マウンティング」と名づけたのは、漫画家の瀧波ユカリさん。そんな女子の恐ろしき実態に迫ったのが、コラムニストである犬山紙子さんと瀧波さんの共著「女は笑顔で殴りあう マウンティング女子の実態」(筑摩書房)である。
では、女同士のマウンティングとは、具体的にどのようなものか。最近、私が目撃したケースを紹介しよう。
場所は都内某所のカフェ。隣の席で、ママ友らしき2人が子どもについて話していた。両人とも30代半ばぐらい。片方はセレブ系で、もう片方はカジュアル感ある下町系。どうやらセレブ系の子どものほうが、頭の出来はいいらしいが、学校では少し浮いている存在(いじられキャラ?)のようなのだ。
それに対して下町系が一言、「でも○○君、いい子だもんねー」と言った。しかし、その「いい子だもんねー」の「ねー」あたりに、ちょっと小馬鹿にしたようなニュアンスが含まれていた。
それを聞き逃さなかったセレブ系は、すかさず反撃を開始。
「そう言えばさー、今まで黙ってたんだけど、○○ちゃん(下町系)ちの旦那さん、もしかして仕事やめた? この前、平日なのに近所で見たからさー、どうしたのかと思って」
これがかなりの破壊力だったようで、一瞬、言葉につまった下町系にたたみかけるように、「なんか、いろいろと大変なんじゃない?」「相談に乗るよ?」とセレブ系。“私はあなたを心から心配している”ふりをして、弱みを聞き出す作戦に打って出たのである。
しかし、そんな姑息な罠にかかる下町系ではない。「全然大丈夫だよー」と余裕の笑みをかましつつ、
「そんなことよりもさー、○○ちゃん(セレブ系)ちの旦那さん、この前の日曜日に『え、どこで買ったの?』みたいなシャツ着てたけど、あれ着てどこ行ったのー? なんかびっくりしちゃったー」と、“お前の旦那は絶望的にダサい”という変化球で打撃を与える。
その後も「会話」のふりをした攻防戦は延々と続き、その矛先はお互いの子どもや実家にまで及んで行くのだった。
まぁこういうのが、人間社会における女同士のマウンティングである。
「ヤバい、自分も日々やっている」と思いあたった人もいれば、「なんか、女子会のあとで妙に落ち込む理由がわかった……」という人もいるかもしれない。
瀧波さんは著書の中で、そんな女同士のマウンティングのさまざまなタイプを紹介、分析している。
親友型、カウンセラー型、プロデューサー型、事情通型、自虐型、無神経型(無意識型)、司会型などさまざまだ。対決パターンとしては、同スペック女子同士もあれば、肉食と草食女子の対決あり、既婚未婚バトルもある。
思えば多くの女子は生まれてこのかた、ずーっとマウンティングをしてきた。小さな頃から「ゲットした男」によって「人生が天地ほど変わる」と吹き込まれているため、子どもといえども「モテ競争」に勝ち抜かなければならない、と思い込まされてきた。
10代後半にもなればリアル恋人自慢が始まり、「友達の彼氏と自分の彼氏、どっちが“上”か」という戦いは、歳を重ねるごとに切実、熾烈(しれつ)になって行く。顔、職業、年収、実家の状況など比較対象は多岐にわたり、めでたくゴールインしたとしてもマウンティングは終わらない。次のステージは「いかに自分が幸せかのアピール」合戦だ。
なんだか、こうして書いているだけで若干疲れてきたが、多くの女子は、こういったことから逃れられずに生きている。
どっちが素敵な恋愛をしているか、どっちが日々充実しているか、どっちのほうがモテて、どっちがいろんな世界を知っていて、どっちの彼氏が“上”なのか……。
思えば私も、そんな「誤差」のような張り合いを、ずいぶんしてきたものである。電話で「お互いの近況を報告し合う」という名目の小競り合いを繰り返し、会えば会ったで、顔を合わせた瞬間に「カーン」と試合開始のゴングが鳴り響く。
相手の「えー、そのバッグ可愛いー、どこのー?」という最初の一言に、どう答えればベストなのかを瞬時に計算して、「あなたよりはちょっと上」の自分をアピールする――。
そんなことを繰り返していて、ある日突然、馬鹿らしくなった。心の底から疲れ果てている自分に気づいた。
そうして「もう絶対にこんなことやめよう」と思ったのは、女友達と「誤差競争」のようなことをしていると、「自分が本当は何をしたいのか」がまったくわからなくなってきたからだ。
気がつけば、「友達に自慢、あるいは報告する」ためだけに、どうでもいい男と付き合ったりデートしたりしていたのだ。
「このままでは、あんな女に自慢するためだけのことで、大切な人生を棒に振ってしまう!」
そう思った私は、20代前半でマウンティングを自分に禁じ、女友達とも距離を取った。で、まわりの「女子目線」が気にならなくなった揚げ句、勢い余って右翼団体に入ったり、北朝鮮やイラクに旅立ったりし始めた。
そうすると、いつの間にか私の扱いは「圏外の人」になっていて、誰も私にマウンティングしてこなくなったのだ。キーワード的に、一般女子と「張り合うところ」がなくなったのだろう。で、圏外となってからは楽に生きられるようになったのだが、改めてそこから見えることがある。
例えば、『女は笑顔で殴りあう』には、「あなたのマウンティスト度をセルフチェック」というチェックシートがある。
「女子会ではついついメークや洋服で武装してしまう」「メールを1日放置されたら2日放置しかえす」「相手に自慢話をされると、自分もそれに対抗するネタをぶつけたくなってしまう」などの項目があり、あてはまるものが多ければ多いほど「マウンティスト度」が高い。そして、このチェックシートには、こんな項目もある。
「旅行やイベントに行っている最中、頭の片隅で『ブログやSNSにどうあげようか』を考えている自分がいる」
もっとも危険なのは、この感覚のように思う。ここにあるのは、「人に自分が充実していると思われたい!」という願望だ。が、これが強くなりすぎると、「自分が人にどう見られるか」が、行動基準になってしまう。
そうなってしまうと、人生の大半のことが「友達に自慢、報告する」ためだけのものになってしまう。
友達にどう思われるか、自分の方が「ちょっと上」と確認して、気分がよくなれるか? そんなことが基準になると、大切なものは、あっという間にわからなくなってしまうだろう。そうして友達に自慢、報告するために恋愛し、友達に自慢、報告するために結婚し、友達に自慢、報告するために出産し、友達に自慢できる子どもに仕立て上げようとする。
そんな女子は、実際に多くいるように思う。それで本人が幸せならばいいのだが、そういう女子は概して、「自分が幸せだと確認したい」がために、他人にマウンティングをしまくるという迷惑行為をする確率も高い。
やはり、どこかで不全感を抱えているのだろう。
瀧波さんの著書では、最終的に「本当に幸せな人は、マウンティングなどしない」という、身もふたもない結論についても触れられている。
相手よりも、自分のほうが幸せだと思いたい。そんな思いは、非常に浅ましい。人と張り合わずとも、自分の幸せを確認できる人――そんな人になるためには、「マウンティングからの卒業」がもっとも近道なのかもしれない。
次回は6月5日(木)、テーマは「女性犯罪者」の予定です。