漢字が読めない。いじめやカツアゲにあいやすい。職場のルールなどが理解できない――。そのようなことから失業し、路上へとたどり着いた、障害を持つ人々。彼らに、森川さんはどのように語りかけるのか。
「多くの人は、働いたらまたいじめられる、だけど生活保護を受けたら受けたで大部屋で集団生活をさせられたり、『働け』ときつくいわれる、と思っているんですね。生活保護につないだものの、そういう理由から路上生活に戻ってしまった人も少なくないんです。なので声をかける時には、障害者手帳というものがあって、それは自分に合った仕事に就ける証明書みたいなものなんだよと伝えます。そういうと、大体の人は『取得したい』といいました」
こうして今まで30人ほどが、森川さんたちの支援で障害者手帳(療育手帳)を取得。これによって多くの人の生活が、安定の方向に向かった。ちなみに、今まで支援した障害を持つ人は100人を越えているという。
「先ほど紹介した“池袋のアイドル”も、東京都が知的障害者に交付する『愛の手帳』を持つ前は、生活保護につないでもすぐに施設から出てきてしまったりしてたんですけど、手帳を得てからはアパートで安定した生活を続けています。知的障害者は、障害を持っていることを知ってもらわないと、普通の人と同じようにできるだろうと思われてしまう。それで、『とにかくハローワークに行け』『すぐに働け』などといわれ、パニックになってしまうのです。手帳さえ持っていれば、障害者枠で仕事を探せたり、作業所に通えたり、障害を持った人のためのサポートが受けられます」
長らく「ホームレス」と「障害」の関連といった問題は、タブーとされてきた節がある。TENOHASIが「都心に暮らすホームレス状態にある人のうち、約3割に知的障害の可能性があり、約4割にアルコール依存症などの精神疾患がある」という調査結果を発表した時にも、各方面から批判があったという。知的障害を持つ人の家族会からは「ホームレスと一緒にするな」というクレームがあり、ホームレス支援団体の中からも批判の声が上がった。
非常にデリケートな問題であることは理解できる。しかし、障害者手帳を得たことによって、何十年にもわたる過酷な路上生活から抜け出した人が多くいることは確かだ。
「昔の社会だったら、知的障害があっても地域で普通に見守られて、普通に仕事ができる環境もあったんですけど、今の東京のように効率ばかりを重視する社会環境では、仕事をしても追いついていけません。やむを得ず障害を持つ者として生活せざるを得なくなっているのかなと思います」
そして森川さんは、次のように話を続けた。
「先日、日本でもっとも自殺が少ない地域の一つである、伊豆七島の神津島(東京都神津島村)に行ってきたんですよ。そこでは自閉症と思われるエピソードのある人でも、普通に仕事をして生計を立てていたりする。島の人たちはよくコミュニケーションをとっているので、うつ病の人に対しても、みんなが声をかけにくる。偏見もないようです。そういう地域であれば、障害者手帳も必要ないんですよね」
ここに、一つの大きなヒントがあるのだと思う。障害を持つ人が、自分らしく生きられるコミュニティーに属していれば、「障害」という概念自体が必要ないのだ。
TENOHASIが活動を始めて12年。森川さんは、今まで多くの路上での「死」を見てきたという。08年末から09年明けに、東京の日比谷公園に開設された「年越し派遣村」で「路上生活者でも生活保護の申請ができる」ということが周知される以前は、池袋近辺だけで毎年10人近くが亡くなっていたそうだ。死因は餓死、凍死、病死。今も年に1人か2人の訃報を聞くという。
元ホームレスの人が生活保護を申請し、アパートに入ってからも油断できない。路上生活では路上のコミュニティーがあり会話もあったが、アパートに入った途端、会話する相手も失ってしまう。そこから自殺や孤独死が発生してしまうこともある。
「結局、人並みに生きるうえで障害は関係ないんです。同じように障害を持っていても、孤立しない人ならなんとかなります」(森川さん)。そのため東京プロジェクトでは、パン作りや食事会、もの作りを行うワークショップ、農業体験など、「仲間」とのコミュニケーションを通した支援も多くなされている。
一方で、「福祉の世話にはなりたくない」「迷惑をかけたくない」と生活保護を受けることを拒否し、路上生活を続ける人もいる。その中には、80代のおじいちゃんもいるという。
「がまんしてるんですよね。自分が福祉を受けることが、迷惑だと思っている。そう思わせてしまう社会が問題だと思うんですが」
森川さんの意見に、まったく同感だ。80代の高齢者が過酷な路上生活を続けなくてはいけないこと自体、社会のネグレクトではないのか。
最後に、“池袋のアイドル”田屋じいのことについて、触れたい。
取材の日にもらったTENOHASIの会報には、彼が30年ぶりに生まれ故郷の北海道に帰省した時のレポートが掲載されていた。きっかけは、彼が路上生活を脱し、妹に手紙を書いたこと。「パンづくりがんばってます。○○子さん(妹)にあいたい」という手紙に、「わたしも会いたいです」と返事がきた。路上生活では、決して受け取ることのできなかった手紙。そうして田屋じいはKAZOCのメンバーとともに北海道へ。
30年ぶりの再会は笑顔に包まれたものとなり、妹は、行方の知れない兄をずっと探していたことを告白。また、そこで胸を打つ事実が支援者たちに明かされる。田屋じいは中学を卒業してすぐに働き、妹が学校を出られるよう、お金をすべて実家に入れていたというのだ。
「わたしはこの人に学校を出させてもらったんだから」
妹の言葉を、田屋じいはどんな思いで聞いたのだろう。そんな「優しい兄」が、15年も路上で暮らさなければならないなんて、やっぱり絶対におかしいと思うのだ。田屋じいが安心して暮らせる社会。障害がある人がサポートを受けられ、刑務所に入ったり路上生活しなくてもいい社会。それは、みんなが安心して生きられる社会である。
東京プロジェクトの取り組みを見て、改めて、そう思った。
次回は8月6日(木)の予定です。