2015年の年末、なんだかよくわからない「人助け」をした。
それは横浜のJR根岸線石川町駅のトイレでの出来事。この日は寿町での炊き出し(ホームレス状態にある人や、生活に困窮している人に雑炊などの食事をふるまうこと)に少しだけお手伝いに行き、その帰りのことだった。
吹きっさらしの野外で洗い物などをしていたので、体は冷えきっていた。同時に、私の膀胱も限界を迎えていた。そうして入った個室で滞りなく事を終え、洗面台に向かうと、何やら外国人女性2人がけたたましくしゃべっている。パッと見た限りではアジア系。フィリピンではない。水商売っ気は皆無。年の頃はというと、2人とも小太り体形で、30代後半から40代前半って感じだ。一人は健康茶のペットボトルを手にし、もう一人は細長い化粧品のようなものを振り回している。
内容はまったくわからないが、すさまじいテンションでしゃべり続ける2人が洗面台を占拠しているので「すいませーん」と手を洗おうと割り込むと、突然2人は私を捕まえ、言った。
「コレ、ワカンナイ!」
その言葉とともに目の前に差し出されたのは、妊娠検査薬だった。2人は検査薬の箱と妊娠検査のためのスティックをかわるがわる私に差し出し、「ワカンナイ!」「ネパールトチガウ!」と鬼気迫った形相で訴えてくる。
迫力に圧倒されつつ箱を見ると、確かに説明書は日本語のみで、検査用のスティック本体にも「判定」「終了」という漢字が書かれているだけで英訳はない。
「ワカンナイ!」「ワカンナイ!」
2人はあまり日本語ができないようで、ひたすらそう繰り返す。なんだか大変な場面に遭遇してしまった……。そう思いつつ、ネパール語はもちろんのこと英語もほとんどできない私は、必死で英単語をつないで彼女たちに検査薬の使用方法を伝えようとした。
「えーっと、ディスイズ、フィニッシュマーク――」
「終了」と書かれたマークを指しながら言い、「判定」のマークには「ベイビー!」「ベイビー!」と繰り返す……。悲しいくらいのわが英語力。ちなみに妊娠検査薬はオシッコをかけると妊娠しているかどうかがわかるのだが、その検査薬の場合、3分待って判定マークのところに赤いラインが出たら妊娠、出なかったら妊娠していないというものだ。
「オシッコ、ドコ?」
尿をどこにかければいいのかという質問に、スティックの先端のガーゼっぽくなっている部分を指さした。お茶のペットボトルを持った、若干派手なほうが「ココネ!」とうなずく。これから個室に行って検査するのだろう、と思い、「イエス」とうなずくと、彼女は持っていたお茶のペットボトルから、中の液体を勢いよくスティックの先端にかけた。
「え!?」
まさかペットボトルの中身がオシッコだと思わなかったので、無防備に「ここ」と指さしたままの私の手にも生温かい液体がかかる。しかし、本人はそれどころではないので、まったく気づいていない。私自身も、なんだかこの人の人生の重要な曲がり角に立ち会っているという、よくわからない使命感から「そんなことはどうでもいいのだ」と自分に言い聞かせる。
それから、長い長い3分間が始まった。私の人生で、これほどまでに緊張した瞬間があっただろうか、というほどに。
しかもそれをもたらしているのは、わずか2分ほど前に会ったばかりのネパール人なのである。洗面台の前、3人で息を詰めて「判定」と書かれたマークを見つめる。ごくん、とつばを飲み込む「妊娠」疑惑の本人。その隣で、神に祈りを捧げるように目をつむり「オォ……」などとつぶやく友人。彼女の手は、常に隣の、妊娠しているかもしれない友人の背中をさすっている。
果たしてこの人、妊娠していたほうがいいのだろうか、していないほうがいいのだろうか……。そう思うと、これから否応なく白日のもとにさらされる事実に対し、どんなリアクションをすべきか、という新たな悩みも発生する。とにかく、いろんな思いがごちゃまぜになって、脇の下にじっとりと汗がにじんでくる。
そうして3分後、判定マークに、妊娠を告げる赤いマークは浮かばなかった。
それが喜ばしいことか悲しいことかわからないので、淡々と「ノーベイビー」と伝えると、2人は両目を飛び出すほどむき出し、それから満面の笑顔になって「ノーベイビー?」と繰り返した。
「ノーベイビー」
もう一度言うと、2人は私の手を握り、そして歓喜に飛び上がり、何度も何度も私を抱きしめるのだった。あの日あの瞬間、石川町駅のトイレは、紛れもなく「世界で最も幸福度の高い場所」だった。私もなんだかうれしくなってきて、私たちは長年の友のように何度も抱き合い、「サンキュー」を繰り返し、「ノーベイビー」の喜びを分かちあったのだった。
彼女たちと別れてから、思った。はるか遠いネパールからやって来て、言葉もほとんどわからない異国の地で妊娠したかもしれないと思った彼女は、どれほど心細かっただろう、と。そして次に思ったのは、彼女を妊娠させたかもしれない男性は、そんな心細さに気づいていただろうかということだった。
そう思うと、見たこともない男性に、なんだか腹が立ってきた。何も知らずにいる場合はもちろんだが、知っていたとしても、それがどれほどの心細さと恐怖であるか、おそらく男性にはわからない。なんだか、「ずるいな」という気持ちが込み上げてきた。私は時々、男性全般に対して「ずるい」と感じてしまう。妊娠する可能性がある性とない性という問題に限らず、男女の間には、いつもいかんともしがたい「非対称性」が横たわっていて、女子ばかりが損することが多い気がするのだ。
私はジェンダー問題に全然詳しくない。
だけど、この辺りに「女子の生きづらさ」のヒントがある気がして、勉強したいと思っている。そうして最近やっているのは「なんか違和感を持ったら、性別を入れ替えてみる」ということだ。
例えば安倍晋三政権が掲げる「女性の活躍」。この言葉に、私はなんとなくだけど違和感を感じた。だって、「男性の活躍」とか「男性が輝く社会」なんて決して言わないじゃん?
そう思って、違和感の正体が少しだけ、わかった気がした。わざわざ「女性の活躍」と言う必要がある社会。先回りした言い訳みたいな言葉。
性別入れ替えをしてみるのは、この国の政策とか、そんな問題だけではない。
例えば最近、過激派組織「イスラム国」(IS)の動画を見ていて、「ヒェー」とどん引きすることがあった。ISの兵士は、ジハードで死んだ場合、天国に行けるのだという。しかもその天国には、72人の処女が待っているというのだ。が、女性兵士に殺された場合は、決して天国に行くことはできない。よって彼らは何よりも、「女性兵士に殺されること」を恐れているということだった。
72人の処女――。ISの兵士にとっては、命を投げ出していいほどの「褒美」なのだろう。が、性別を入れ替えてみたら? 女性が死んだとして、そこに「72人の童貞」が待っていたらどうだろうか?
私は絶対勘弁だ。なんだか猛烈に「部室」っぽい臭いがしそうではないか。それは天国などではなく、かなり地獄に近い場所ではないか。
このように、性別を入れ替えるだけで、天国と地獄の様相も変わってくるという奥深きジェンダー問題。
ちなみに日常的にこれをやっていると、いろんな矛盾にブチ当たる。育児に協力的な男性が「イクメン」ともてはやされても、女性が「イクジョ」なんて褒められることはない。介護をする男性も「ケアメン」なんて言葉で肯定的に捉えられているが、親や病気の子どもの介護をする娘や母親はわざわざ名付けられ、脚光を浴びることはない。
「大変だね」「偉いね」と言われても、どこかで「当然」という空気がある。というか、もうずっとずーっと長いこと、育児や家事や介護は「女の仕事」だった。だからこそ、家庭内で女性が担ってきた仕事は、仕事として成立しても低賃金に抑えられている。このように、日本社会には隅々まで差別と言っていい構造が浸透しているのに、もう構造自体が差別を組み込んでいるので、どこからどうしていいのかわからない。
だから私は小さな抵抗として、男性、女性という言葉がやけに強調される時、それを置き換えてみる。そうすると、見えなかった世界がほんの少し、見えてくるのだ。
ということで、今も時々、あのネパール人のことを思い出す。彼女たちに幸多いことを祈りつつ、あれからペットボトルのお茶をなんとなく敬遠している私だ。
次回は3月3日(木)の予定です。
年末の石川町駅トイレにて
(作家、活動家)
2016/02/04